インターネット版 No.103-2

無名異焼の郷 たらい舟・金山・歴史文化…佐渡を巡る2 無名異焼窯元―無宿人の墓―佐渡金山
旅も中盤、いよいよ無名異焼の窯元へ
  江戸時代に金山の町として栄えた相川町は、現在1万人弱ほどの人が住む、静かな落ち着いたたたずまいの町です。相川での金鉱脈の発見は、関ヶ原の戦いの翌年、1601(慶長6)年のことといいますから、今から400年前のこと。長らく江戸幕府の財政を支えたこの金山は無名異焼と切っても切れない縁があり、無名異焼誕生は金山なくしてはあり得ない! と言っても過言ではありません。そんな金山の麓に広がる相川の町を中心に今でも約25軒ほどの窯元が活動を続け、無名異焼の故郷として長い伝統を守り続けています。
『現役登窯のある
数右エ門窯を訪問』

 数右エ門窯は金山のそばに立ち茶器や酒器、茶道具から家庭食器まで幅広い制作をされている無名異焼の窯元です。釉裏紅の研究に陶芸人生を捧げた、初代数右エ門を父に持つ現当主・長浜数義氏に案内して頂きました。
入口には無名異の土でできたおしゃれな風鈴が
飾られていました。
 金山によって繁栄を極めた江戸時代、相川では日用食器の需要が高まり、セトモノ屋も数軒あったといわれています。そのため日本海を北上していた北前船が、備前や越前焼など六古窯のやきものや、美濃焼、唐津焼や伊万里の器を積んで、続々と入港してきました。それにもかかわらず、佐渡では長い間やきものが焼かれることはありませんでした。佐渡で本格的な陶器製作が始まったのは、江戸後期の寛政年間(1789〜1800)頃。相川の黒沢金太郎が、本格的な佐渡生まれの施釉陶器をはじめて完成させたといわれています。その後、金山から掘り出される土を素地土に混ぜて、焼き始めました。これは釉薬を掛けずとも赤く焼き上がるのが特徴で、これが現在まで続く無名異焼の始まりです。
広々としたギャラリーに、数右エ門窯の作品が並べられています。
初代数右エ門は釉裏紅を得意としました。
残された作品は細かく絵付され見事な赤色を輝かせていました。


 突然の訪問にも関わらず、無名異焼について、その現状など長時間に渡りご説明頂き、改めて無名異焼の素晴らしさや、現状を知ることができました。


 「7〜8年前まではアマチュアも含め40窯ほどあったが、今は25ぐらいになっている。観光客は多くなったものの、やきものが生活に行きわたり、観光で買う人が少なくなった」と語る2代目当主・長浜数義氏。一時期はお土産に無名異焼が飛ぶように売れて、島の窯元にゴールド・ラッシュをもたらしたといいますが、現在はどの陶産地も厳しい状況にあるようです。



 長浜氏は武蔵野美術大学を卒業し彫刻を得意としているため無名異焼の他にもオブジェやアートな作品にも取り組まれています。  
奥の床の間に飾られているのは氏がコレクションしている手ぬぐい。
その数と種類は趣味の域を越えるもの。
 無名異焼と聞くと朱泥の焼締めの器を思い浮かべますが、実際は、練上げ手や美しいマリンブルーの施釉陶、または絵付の施された器や無名異土にこだわっていない焼締め陶など、窯元や作り手それぞれの新しい様式のやきものが次々に生まれています。
 その背景には、京都の貴族文化、江戸の武家文化、それに西国の町人文化が渾然一体となって育まれてきた、この島の歴史・文化の特殊性があるといわれています。 当然ながら佐渡で生まれた陶器もそのような文化とともに発展してきました。まるで日本の陶芸界の縮図とでもいえるのが現代の無名異焼。そしてそれらの持つ多様な色や、いかなる形の器も、作者それぞれの志向と解釈によって作られている、どれも無名異焼なのです。
 
ギャラリーに隣接した工房内に設けられた登り窯。
制作途中の作品が所狭しと並んでいました。
『水替無宿の墓から金山へ』
 長浜氏のすすめにより、工房から続く裏山にある無宿人の墓へと向かいます。

 思わず進むのがためらわれる道…この先に墓があるとのこと。道の険しさに加えて、真夏の照り返しも厳しくやっとの思いで到着。
 『普明の鐘』は金山での採掘作業などで亡くなった人の霊を鎮めるために鳴らす鎮魂の鐘です。
 金採掘の作業はあまりに過酷で多くの人が鉱山の土になったといいます。
『普明の鐘』
 墓石には坑内作業中に亡くなった218名の生国、戒名、名前などが刻まれています。
 約1800人以上の人足(無宿者)が長崎の天領地から送られ、ほとんどがこの地で亡くなりました。
 「江戸」の文字が彫られた墓石。長崎の天領地以外にも、全国各地から相当数の人足が送らました。
 開山から約100年で、掘りつづけた坑道が海水面にまで達し、坑内の湧水に悩まされるようになります。江戸時代の金の採掘時の最難関が、坑に浸みだしてくるこの水の処理でした。『水替無宿の墓』の水替とはそうした坑道に入ってくる地下水を人力で掻い出す作業をいいます。水替には江戸などから強制的に無宿人を集め作業に当たらせましたが、あまりに過酷な作業のため、人夫たちはすぐに死んでしまったともいわれています。その霊を慰めるために建てられたのがこの墓でした。
 水替無宿の墓から金山へはさらに険しい山道が続きます。

 山道を抜けたところで茶屋を発見。冷たい飲み物にありつくことができました。
『史跡佐渡金山』
 写真右上に見える二つに割れた山「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」は佐渡金山の象徴。金山開山当初から開発された最古の採掘跡の一つです。山頂から断崖絶壁を成すこのような採掘跡は世界的にも珍しく、国の史跡に指定されています。
茶屋から望む金山
 掘り出された金鉱はベルトコンベアーやいくつかの小屋を経由して写真右側の棟まで運ばれトロッコで港へ、さらに船で瀬戸内海の工場へ運ばれたとのことです。
 金山へと向う長い坂道を歩き始めたところ、声をかけてくるご老人が。話が始まると偶然にも三浦小平二氏の義弟、根本良平さんとのこと、なんとラッキーなことでしょう! 三浦小平二氏は人間国宝にも認定されている佐渡出身の有名作家です。金山まで向う途中、無名異焼のルーツなど詳しく伺うことができました。
『無名異坑跡』
 道中にある、無名異焼の原料となった無名異坑跡を案内して頂きました。
 金山から掘り出された鉄分(酸化鉄)を大量に含んだ赤色の粘土は、古くから止血剤や中風に効能のある薬に用いられ、佐渡でも薬用として販売されていたといいます。
金山入口へ向かう途中、階段を上がったところにあります。
 「無名異焼は羽口(はぐち・金銀の精錬時に用いるフイゴの送風口)を作るために佐渡中の土を試験したものを閉山後、伊藤赤水、三浦常山により陶芸用として使うことで始まった」、さらに「江戸時代、金の鉱脈に付いている黄色い泥を三代常山が無名異と名付け、それを土に混ぜた」と教えて下さいました。
 炎天下、急な坂道を30分ほど歩き、ようやく金山入口が見えてきました。


 佐渡金山は、1601(慶長6)年に金鉱脈が発見されて以降、江戸時代を通じて徳川幕府の財政を支えました。
 百姓の寒村だった島には全国各地から労働者や鉱山技術者、商人などが集まり、人口5万人とも言われる大都市「相川」が誕生します。さらに、江戸と直結していた佐渡には、当時最先端の知識や技術がもたらされ、その後の日本鉱業界発展の礎となる多くの技術(火薬発破による採掘、削岩機など)が実用化されました。
  展示室には創業当時の機械設備がそのままの姿で残されているので、歴史を物語る産業遺産を間近に見学することができます。
 坑道隣には大規模な土産店があり、ここでも無名異焼が多数展示されています。
根本良平さんの作品も展示されていました。
『佐渡金山坑道入口』
 坑道は「宗太夫抗(そうだゆうこう・江戸時代)」と「道遊抗(どうゆうこう・明治時代)」の2つ。開削された坑道の総延長は約400km(およそ東京−大阪間に匹敵)にも達します。
 開山した江戸時代から操業停止の平成元年まで388年間に採掘した金の量は78トン、銀は2,330トンにもおよんだそうです。
 鉱山としての寿命がこれほどまでに長いのは世界でも珍しく、日本最大の金銀山となっています。
 明治から平成元年(1989)まで佐渡鉱山の大動脈として使われた「道遊抗」。機械工場、高任立坑(たかとうたてこう)などが見学できるほか、「道遊の割戸」を間近に見ることができる展望台が設置されています。