全国旅手帖小鹿田焼(歴史・特徴−もっと詳しく)

小鹿田焼の代表技法のひとつ、打ち刷毛目の大皿です。打ち刷毛目は、生の素地にたっぷり化粧泥を塗り、それが乾かないうちに大きめの刷毛を当てて模様を描くもの。ろくろを回しながらトントンと刷毛を置いていく感じです。縁には櫛描きの模様が見えます。
■リーチが愛した小鹿田焼
 小鹿田焼は、大分県北部の山奥にある小さな集落で作られるやきものです。この村は地名でいえば日田市源栄町皿山(さらやま)。ほぼ福岡県との県境にあって、地元ではシンプルに“皿山”で通ります。「皿山」は、九州地方で多く使われる言葉で、窯場のある一帯を指していいます。ところで、「小鹿田」の文字がどこにも見当たらないのが不思議ではありませんか……。小鹿田焼の名は、この集落が以前に日田郡大鶴村の小鹿田と呼ばれていたことに由来しています。
 小鹿田焼は、いわゆる民芸調の陶器です。赤土を素地とした丈夫そうな作りに、化粧土や釉薬を使ったアースカラーの装飾が施されています。まるで土の香りがするような素朴な印象で、見かけは厚くどっしりと重そうですが実際に持ってみるとそうでもありません。この手取りの良さは、さすがに開窯以来、日用雑器を焼いてきた窯ならではと思わせます。
素朴で温かみのある小鹿田焼の器たち。左の鉢には、飛び鉋と櫛描きの模様が見えます。小さな器にも打ち刷毛目が施され、しかも薪窯焼成で安価なのには驚き!
 ここでは皿、鉢、碗、土瓶、徳利、片口などの日用食器のほかに、甕(かめ)、壺などの大物も作られています。なかには異国風のピッチャーや、雲助(うんすけ)と呼ばれる、注ぎ口のついた壺のような徳利のような変わった形も見られます。ピッチャーはかつてここに滞在し作陶したというイギリスの有名陶芸家、バーナード・リーチの名残でしょうか。雲助は焼酎入れに使われたものだそうです。

バーナード・リーチ作

 伝統的な装飾には、白化粧を活かして行うものと、釉薬を使うものがあります。前者は、打ち刷毛目、飛び鉋(とびかんな)、櫛描き(くしがき)、指描きなどで、後者には流し掛けや、打ち掛けがあります。
飛び鉋 打ち刷毛目 櫛描き
使われる釉薬は白釉、飴釉、黄灰釉、薄緑釉、伊羅保釉など。
これらの釉が地色になったり、前述の白化粧を使った装飾と組み合わされたりして、多彩に器を飾ります。
 皿山ではこうした原料のほとんどを自給しています。そのせいか、作風は兄窯といわれる小石原焼(福岡県)とよく似ていますが、小鹿田焼はより野性的で、手仕事の温かさが強く印象に残るのです。

釉薬の上に、さらに別の種類の釉を用いてスポイト描きをしているところ。下には飛び鉋の装飾も見えます。素朴でも多彩な装飾が小鹿田焼の特徴です。
■“日本の音”に選ばれた唐臼の音色
 さて、辺境にあるこの小さな窯里は、数ある陶産地のなかでも際だってユニークな存在です。 それは、小鹿田焼が国の重要無形文化財(1995〈平成7〉年総合指定)に指定されていたり、「残したい日本の音風景100選」 (1996〈平成8〉年認定)にも選ばれたことから少しは想像できるのですが……、なんと、生産工程のほとんどが開窯当時の姿を保っているのです。
 70年も前にここを訪れた民芸運動の指導者・柳宗悦はこう書いています。『九州に窯は沢山ありますが、おそらくこの日田の皿山ほど、無疵(むきず)で昔の面影を止めているところはないでありましょう。(中略)……昔の窯場がどんな様子であったかを思い見る人は、現にあるこの小鹿田の窯を訪ねるに如くはないと思います』(「手仕事の日本」より)
「残したい日本の音風景100選」に選ばれた唐臼。水力を利用してししおどしの要領でキネが打ち落とされ、約1ヶ月程かけて粉砕します。
 驚くべきことに現在もこの言葉の意味が生きている、それが小鹿田の特殊性です。そんな小鹿田皿山へは、JR日田駅からバスを利用します。市街を通り抜け、田園風景がやがて日田杉の山道となり、こんな山奥に……と心細く思う頃、やっと皿山の集落に到着します。山間に開けたなだらかな斜面には、一本の坂道が上へとのびています。その通りに沿うように大浦川が流れ、建ち並ぶ家々は14軒のうち10軒が窯元です。まずは、ブラブラと散策して、皿山ならではの隠れ里の雰囲気を感じてみてください。
 乾燥中の器が並ぶ、のどかな天日干し風景。庭先では土作りの最中で、胎土が生き物のようにテラテラと輝いています。登窯の煙突はあちこちに点在し、川に設置されたいくつもの唐臼(からうす)からは心地よい音色が響いてきます……。唐臼は水流を利用して土を砕くアナログな道具で、いまだ現役で活躍するのは全国でもおそらくここだけでしょう。 
山間にある皿山では、日照時間も限られます。太陽が出れば、そこここで天日干しの風景が見られます。素焼をせず、白化粧や飛び鉋、釉薬を施したりする小鹿田焼は、乾燥の度合いがとても重要なのです。
 「残したい日本の音風景……」に選ばれたこの音色は、一度聞いたら忘れがたいものがあります。そして、こうした風景の中には働く家族の人たちの姿が溶け込んでいて、単なる残存民芸とはいえない、皿山のダイナミズムが生き生きと伝わってくるのです。また、各窯元の作風は似通っていますが、やはり得意があり、そこに作者の個性を発見するのは楽しいものです。
 それぞれに展示室があるので、順に回ってみましょう。狭い集落ですから、徒歩で回ってさほど時間もかかりません。もし、2カ月に1度くらい行われる登窯の窯焚きに遭遇したら、これは強運です。
 原料の採取から、唐臼による土作り、蹴ろくろの成形、そして薪窯焼成まで、いうなれば正真正銘手作りの小鹿田焼。機械化をこばみ、職人も雇わない、現代では不可思議とさえ思えるその姿は、家族単位の一子相伝の掟によってかたくなに守られてきました。時代に逆行するかのようなこの生き方は、人里離れた皿山の人々が選んだ、共同体として生き残るための“知恵”だったのです。

小鹿田では、紐作りを基本に蹴ろくろで挽き上げます。土は伸びにくく、腰がすわっていないとなかなか挽き切れないそうです。小石原の陶工でも音を上げたとか……。
■小鹿田焼物語
◎孤高の民窯
 小鹿田焼が生まれたのは今から300年近く前、1705(宝栄2)年のことでした。日田郡大鶴村の黒木十兵衛が、福岡県朝倉郡小石原村の陶工・柳瀬三右衛門を招いたことに始まります。三右衛門は十兵衛とともに窯業に適した地を探し、小鹿田に李朝系の登窯を築いたのです。この地が選ばれた決め手は、登窯の築窯に適した斜面があったこと、また豊富な陶土や薪、そして水力の利用に便利な自然環境であったからと考えられています。
 ですから小鹿田焼のルーツは、直接的には小石原皿山であり、もっとさかのぼれば高取(たかとり)系(福岡県)、そして朝鮮李朝へといき着きます。とはいっても、日田山中という閉鎖的な環境のなかで営まれた小鹿田の窯場は、他の窯との交流や影響を受けることもありませんでした。半農半陶の生活のなかで、人知れず、日田領民のための日常雑器を、需要に応じて営々と焼き続けたのです。
◎柳宗悦が有名にした皿山のやきもの 
 こんな小鹿田の窯が一躍脚光を浴びるようになったのは、1931(昭和6)年のある出来事がきっかけでした。当時民芸運動を推進し、全国の手仕事を調査していた柳宗悦が山道を歩いて来山したのです。『どんな窯でも多少の醜いものが交じるが、この窯ばかりは濁ったものを見かけない』と驚いた宗悦は、後に「日田の皿山」という紀行文を発表し、賞賛したのです。以来、豊後の山奥で焼かれる無名のやきものは小鹿田焼と呼ばれるようになり、日本の代表的民陶として広く知られるようになりました。 
 1954(昭和29)年には、かのバーナード・リーチが最初の訪問をし、3週間滞在しています。『私は小鹿田に陶技の指導に来たのではなく学びに来た』の言葉どおり、陶工たちと仕事をし、いくつもの作品を残していきました。10年後、リーチは濱田庄司らとともに再び訪れ、皿山の名声はさらに高まりました。
 その後小鹿田焼は、1957(昭和32)年に県の重要無形文化財となり、1970(昭和45)年には国の記録保存文化財、そして1995(平成7)年、国の重要無形文化財(総合指定)に指定されています。その間にも全国の窯場は近代化の波に洗われ、兄窯の小石原では唐臼が機械へと変わり、世襲制の枠もはずされました。そんな姿を間近に見た小鹿田でも選択の岐路に立たされましたが、その度に話し合い、あえて昔ながらの製法と秩序を守ることで各窯の較差をつけず、共同体として皆が生き残る道を選んだのです。
 こうして開窯当時の純粋性を保つ小鹿田皿山。この異色の陶産地には、今日も唐臼が響き、家族総出のやきもの作りが、淡々と続いています。

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