佐渡の碧い海と猛々しい岩場が織りなして見せる景色なら、大体どこで写真を撮っても絵葉書のようになってしまいます。もちろんそんな地理的な要因により、海の幸にも恵まれていますから、鯛や平目のお造りや鮑のステーキ、烏賊などの海産加工品など、なにを食べてもウマイ、素材新鮮で大満足です。 | |
■金山(きんざん)の麓に点在する窯元 | |
無名異焼……とは、なんだか聞き慣れない妙な名前のやきものです。これは、新潟県の佐渡島において、江戸時代から現在までおよそ200年間に渡って焼き継がれてきた個性的な陶器です。 もちろん佐渡島はよく知られているように、北陸地方の北辺、日本海に浮かび、沖縄島に次ぐ日本第8位の面積を持つ大島です。そして佐渡島といえば、なんといっても江戸幕府直轄だった金山(きんざん)や、民謡・佐渡おけさがとても有名です。また最近では、国の特別天然記念物に指定されているトキの飼育の話題などで、たびたび全国的なニュースになっています。 さて、新潟港から佐渡島行きのカーフェリーかジェットフォイルに乗船すると、やがて船は両津港に接岸します。島に上陸したら今度はバスに乗り換え、1時間ほど揺られるといよいよ相川の町に着きます。江戸時代に金山の町として栄えたこの相川町は、現在は1万人弱ほどの人が住む、静かな落ち着いたたたずまいの町です。ことさら海の眺めが美しく、付近には多くの景勝地があり、とくにゆるりとカーブを描く七浦海岸や相川海中公園、雄壮な岩場や奇岩が続いていて飽きることのない尖閣湾の景観が見事です。 そしてこの辺り、相川町を中心にして多くの窯元が窯煙を上げ、無名異焼の故郷になっています。 |
■無名異は漢方薬 | |
ところで、「無名異焼」という奇妙な名は、一体、どうしてつけられたのでしょうか。もともと無名異とは、金山から掘り出された鉄分(酸化鉄)を大量に含んだ赤色の粘土のことをいいます。こうした鉄の酸化物やマンガンを含んだ鉱物は、古くから止血剤や中風に効能のある薬に用いられ、佐渡でも薬用として販売されていたといいます。そしてこの赤土の漢方薬としての呼称が、「無名異」だったわけです。佐渡ではその無名異を素地土に混ぜて赤色の器を作ったから、「無名異焼」と呼ばれ親しまれるようになりました。 現在、島内にある窯元はおよそ40軒ほど。その半数近くが相川町に集まっています。町内を徒歩でぐるりと回ってみると、どの窯元にも「無名異焼」の看板が掛かっていますが、しかし展示されているものは、多種多様でじつに個性豊かなことに気がつきます。どちらかというと無名異焼は、朱泥の焼締めの器のイメージが強いのですが、そればかりでなく、練上げ手があるかと思えば美しいマリンブルーの施釉陶なども見られ、または絵付の施された器や無名異土にこだわっていない焼締め陶など、窯元や作者それぞれの理解による、現在の佐渡島発の新しい様式のやきものが次々に生まれているのです。 その背景には、京都の貴族文化、江戸の武家文化、それに西国の町人文化が渾然一体となって育まれてきた、この島の歴史・文化の特殊性があるといわれています。当然ながら器も、それらの文化と不即不離な関係を絶えず保ちながら、発展してきたのでしょう。雅な絵付陶器が見つかったかと思えば、伝統的な朱泥焼締めがあったり、あるいはオリジナルな釉が特徴の器だったり、または無名異を単なる素材として用い、創作としての表現を追求している作品なども見られ、まるで日本の陶芸界の縮図とでもいえるのが現代の無名異焼の様相です。そしてそれらの持つ多様な色や、いかなる形の器も、作者それぞれの志向と解釈によって作られている、どれも無名異焼なのです。 そんな中から好みにぴったりと合う器を見つけたり、またキラリと輝く若い才能を発見したりする喜びがあるのが、こうして実際に陶産地を巡る旅の最大の魅力といえます。 |
■無名異焼物語 | |
無名異焼の代名詞ともいえるのが、この朱泥の急須です。形も本当にいろいろな種類があって、どれにしようか迷ってしまいます。「いいといわれるもの」を見つけようとするのではなく、「自分が気に入ったもの」を見つけて長く使い込めば込むほど、器肌にしっとりとした味わいが出てくるのが特徴です。 |
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◎赤い器は佐渡の伝統 | |
佐渡島・相川での金鉱脈の発見は、関ヶ原の戦いの翌年、1601(慶長6)年のことといいますから、ちょうど今から400年前のことです。 ほどなく幕府直轄の金山として召しかかえられ、長く江戸幕府の財政を支えました。結局、平成元年までにこの島で採掘された金の総量は、なんと78トンにもおよんだそうです。そしてこの金山と無名異焼とは、ただならない因果関係によって強く結ばれていたのです。 江戸時代、金山景気に沸いていた相川の町には、日用食器の需要が高まり、セトモノ屋が数軒あったほどといわれています。そのため日本海を北上していた北前船が、備前や越前焼など六古窯のやきものや、美濃焼、唐津焼や伊万里の器を積んで、続々と入港してきました。それほど島での器の需要は多かったのですが、しかし長く佐渡産のやきものはありませんでした。ようやく江戸後期の寛政年間(1789〜1800)頃になって、相川在の黒沢金太郎が、本格的な佐渡生まれの施釉陶器をはじめて完成させたといわれます。佐渡島における独自のやきものの歴史は、ここからはじまります。また次いで、金銀の精錬時に用いるフイゴの送風口(羽口)や瓦を焼くのを家業としていた7代伊藤甚兵衛が、文政年間(1818〜1829)頃、金山から掘り出される「無名異」(酸化鉄を含む赤い土)を素地土に混ぜて、茶器や酒器などを焼きはじめたといわれます。これはとくに釉薬を掛けなくても赤く焼き上がるのが特徴で、これこそが現代にまで継承されている無名異焼の興りでした。 とはいっても、初期の頃の無名異焼は技術に熟達しておらず、まだ低火度でしか焼けなかったため、まるで楽焼のように柔らかな製品だったようです。したがって日常生活で使えるような耐久性には欠けていて、残念ながら実用的な器とはいえませんでした。しかし、無名異を利用した「朱もん」と呼ばれる朱泥の性質を活かした無釉焼締めの系譜は、そのまま佐渡のやきものの伝統となって、今日まで確かに生きながらえています。 |
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◎飛ぶように売れる朱色の無名異焼 | |
やがて徳川幕府は崩壊し、明治へと時代が移っていきます。当然ながら、金山の経営も幕府から受け渡され、新たに明治政府直轄となって、近代的な合理化が急速に推進されました。そしてやきものの製造にも、同様に近代化の波が押し寄せてきました。 各窯元ではそれら時代の要求に応えて、もっと量産ができ、より高火度で焼締められた耐久性のある無名異焼を作ろうとしました。その先頭に立って精力的に活動したのが、常山(じょうざん)窯初代の三浦常山であり、また赤水窯の伊藤赤水(せきすい)がそれに続いていました。そして明治6(1873)年になって、試行錯誤の末についに1200度もの高温で焼締めた本焼の無名異焼が完成しました。「無名異焼」の名が定着したのも、この頃からだといわれています。さらにこの時期には、作られるものに作家性が反映されはじめ、美術工芸品としての萌芽が見られる時代でもありました。やがて常山窯や赤水窯から独立した人々が、島内各所に散らばって窯元となり、それぞれの無名異焼を互いに模索し発展していきました。藁灰釉をかけた細工物や、絵付が巧みな器など、窯によって独自の工夫が顕著に現れはじめました。 しかし周辺地域の民のための器を焼くだけで、無名異の各窯元は経済的にはなかなか恵まれませんでした。ところが昭和40年代になって、とくに1970(昭和45)年からはじまった国鉄(現JR)初のイメージキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」に乗って、佐渡にも年間20万人という観光客が全国からどっと押し寄せてきました。そしてお土産に無名異焼が飛ぶように売れだし、急須や夫婦湯飲みなど朱泥の茶器類が大ヒット商品になり、島の窯元にゴールド・ラッシュをもたらしたのです。 |
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また無名異焼の朱泥急須は急須の産地として世界的に知られる中国・宜興窯(ぎこうよう)のものと性質がよく似ていて、土の粒子がとても細かく、よって極めて硬質に焼き上がっています。そのため無名異焼は使い込めば込むほどに光沢が増し、一層の趣が器肌に現れるのが大きな特徴となり多くのファンに長く愛玩されています。 |
湯飲みの高台を削る作業です。電動ロクロに底(高台)をうえにして置き、カンナで削って形を整えていきます。ロクロは電気を動力にして動きますが、基本的な作業手順や技術は、無名異焼創窯当時の200年前とほとんどなにも変わっていません。 |