全国旅手帖渋草焼(歴史・特徴−もっと詳しく)

■陶と磁、二つの色絵に会える陶郷
 渋草焼は、飛騨高山のやきものです。
 その名は「渋草ヶ丘」という地名に由来するといわれます。はじめて窯場が築かれた江戸の頃、この丘一帯は淡紫色の花をつける渋草(=いかり草)の自生地だったのだそうです。渋草焼はそんな美しい逸話にも似て、愛らしさの中にも華のある、染付や色絵のやきものです。そしてたった2軒の窯元によって焼き続けられてきた産地なのに、磁器と陶器という趣の違う2種類の色絵に出会えるのも、渋草焼の大きな魅力となっています。

渋草焼の飾り皿。大胆で勢いのある筆使いに、作者の個性があふれています。
 飛騨は深い山の中。飛騨川の清流に沿って走る高山本線に揺られながら、滴るような緑と渓谷美に眺め入っていると、空が急に大きく開け、やがて町が見えてきました。渋草焼の生誕地、小京都・高山です。
 高山の町は、まるで古き良き時代のミュージアム。そぞろ歩くだけで、体の中に組み込まれていた日本的美意識が呼び覚まされるようです。そんな町並みに溶け込むように、渋草焼を名乗る2つの窯元がありました。
 「芳国舎」と「渋草柳造窯」です。
 芳国舎では染付や色絵磁器の食器を中心に焼いています。かつて「飛騨赤絵」「飛騨九谷」と呼ばれて名声を博した渋草焼。その系譜を今に変わらず継いでいるのが、芳国舎の器なのです。染付の藍絵に、赤・緑・黄の上絵具で描く「五彩」の模様をあしらった絵付に人気があるらしく、通い続ける有名人のファンも多いと聞きます。 地元産の陶石を素地に使い、絵はすべて手描きで、大量生産はしない。創業当時からの一貫したポリシーと、熟達した職人さんたちの手を抜かぬ仕事ぶりが、芳国舎の器の魅力なのだと思いました。
 もう一つの渋草焼窯元・渋草柳造窯は、陶器を焼く窯です。芳国舎と、もともとルーツは同じですが、渋草焼160年の歴史の中で分岐し、時代の要請に伴って陶器を手掛けるようになりました。そしてこの窯の大きな特徴は、モダンな趣の窯ものの器もさることながら、六代戸田柳造氏の1点ものにも出会えることです。
 作品の特徴は、まず、繊細で緻密な絵の品格にあります。酒器や花器、壺、陶筥などに描かれた赤絵や染付から感じるのは、名工といわれた父・五代柳造直伝の画才の豊かさ。そして、職人気質が尊ばれるこの地で、作家として自身の内を探りながら思いと感性を作品に焼き付けていこうとする姿勢に、何より好感が持てるのです。
■台頭する新しい窯元
高山には、渋草焼の他にも、小糸焼、山田焼などの風土に根ざした窯元があります。華麗な渋草焼や茶人好みの小糸焼が、城主や郡代の命によって上級武士のために焼かれたのに対し、山田焼は庶民のための雑器を焼き続けてきた素朴な窯元です。
 わずか2軒の窯元。同じく洗練された絵付を主役としながら、印象の異なるやきものに仕上げる……。これらの技と成果を間近で見られる楽しみは、まさに渋草ならではのことでしょう。陶産地としては決して立地に恵まれているとはいえません。しかし、こうした産地としての個性と、逆境にあっても製品の質を落とそうとはしなかった窯元たちの気概が、高山を訪れる年間250万ともいわれる観光客を魅了し続けているのです。
 さて、芳国舎と柳造窯の工房は、ともに繁華街から車で10分ほどのところにあります。売店のある三町(さんまち)界隈のにぎわいが嘘のように、そこに流れるのはゆったりとしたもの作りの時間。ろくろ師、絵付師とに分かれた職人さんたちが一線に並び、粛々と丹念に、しかも手際良く仕事を進めていました。もし見学を希望するなら、それぞれ、前もって問い合わせてみるのがいいでしょう。100年以上も経つという芳国舎の工房や、絵付場に並んだ戦前からの見本品など、風情を残した鄙びた美しさは胸を打つものがあります。 
 また高山では、渋草焼のほかに、幻の茶陶を再興した風雅な小糸焼や、唯一残った生え抜きの民窯・山田焼、新興の窯元・飛山窯も、窯の火を守り続けています。さらに周辺には、今後の産地の動向を暗示するかのように、風土に根ざさず作家活動を続ける今井兵衛氏や新進の陶芸家らが工房を構えています。
■渋草焼物語
◎飛騨九谷・飛騨赤絵の誕生
 はるか1000年以上も昔から、飛騨は、木を扱う腕のいい職人が多いことで知られています。これを人々は「飛騨の匠」と呼びました。こうした土壌を背景に、京都や江戸の文化を取り入れながら、飛騨独特の質の高い職人文化が育まれてきたのです。たとえば、名高い飛騨の家具や飛騨春慶塗、一位一刀彫などがその一例です。渋草焼は、そんな風土に生まれたやきものです。
 創業は1841年(天保12)のこと。江戸幕府の天領時代、ときの郡代・豊田藤之進が地場産業の一環として企画。尾張瀬戸から陶工・戸田柳造を招いて、飛騨国渋草(現在の高山市上岡本)に窯を開かせたのが始まりです。郡代の保護のもと、やがて苦心の末に、念願の磁器焼成に成功します。数年後には、加賀から曽我徳丸をはじめ数名の絵付師を呼び寄せ、九谷風の絵を施すようになったのです。当時焼かれていたのは、五彩、南京赤絵、古染付の写しなど。幕末には名絵付師の活躍もあり、「飛騨九谷」「飛騨赤絵」と呼ばれるまでになりました。
 当時は、伊万里・有田の磁器がもてはやされた時代。九谷も、少なからずその影響を受けています。そして、いつの時代も、需要の多いものを目指すのは世の常です。当然のことのように、渋草の陶工たちも切磋琢磨して技を磨き、九谷風の皿や壺をたくさん作りました。ところが、販路を得ようにも、知名度のなさには勝てませんでした。だからといって手間のかかる赤絵や五彩は、雑器のように安く売っては採算に合いません……。ついには渋草焼を「九谷」と裏書きまでしなければならなかったといいます。こうした状況は、当時、全国のあちこちの窯場でも起きた悲劇です。陶工たちにとっては屈辱だったに違いありませんが、反面、それが可能な、レベルの高い製品だったともいえるのです。
 やがて幕府が衰退し、初代戸田柳造の死を迎えると、支えを無くした渋草焼の窯の火はひとまず消えることになったのです。
◎旦那衆が支えた渋草再興
 これを再興したのが、旦那衆と呼ばれたパトロンたちでした。高山文化の担い手だった裕福な町人たちです。1878年(明治11)、造り酒屋2名、呉服屋1名、鉱山師1名が共同出資して、「陶甄社(とうけんしゃ)」(その後すぐに社名を「芳国社」とする)を設立。再び名絵付師を招いて、渋草焼に息を吹き込んだのです。しかし、なかなか販路は開けず、旦那衆たちは二人、一人と身を引いていきました。それでも最後に残った鉱山師・三輪源次郎の渋草焼に賭ける情熱はすさまじく、瀬戸、有田、九谷の技術を取り入れて大量生産を目指し、一文無しになるまで資金をつぎ込んだといいます。
 やがて、熟練工3名が工房を離れて「柳造窯」の前身を作りました(1885年)。そして芳国社は、1910年に三輪源次郎が亡くなった後、「芳国舎」と名前を改め、経営者を変えながら現在へと引き継がれてきたのです。
 こんな歴史を背負うのが、現在の2つの窯元です。芳国舎は、当初の渋草焼が追い求めた磁器を作り、絵を描き続けています。そして、渋草柳造窯では磁器から陶器へと切り替え、伝統を踏まえつつ新しい渋草焼を模索しているのです。
 数々の苦難に見舞われても、生き残り、現代に根をはった渋草焼。これを支えた匠の技と旦那衆の気概に、いかにも飛騨高山らしい、伝統文化の貴び方を見た思いです。
 そして、ここはまだ、渋草焼の歴史の通過点に過ぎないとも、思えたのでした。

【参考文献】
『飛騨のやきもの』長倉三朗(1976年/実業之日本社)
『岐阜県百科事典(上)』岐阜県百科事典制作委員会(1968年/岐阜日日新聞社)
『角川日本地名大辞典21 岐阜県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会(1980年/角川書店)

株式会社 東京丸二陶料