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●陶芸を捉え直す試み

 岡本立世総長は三重県上野市(現・伊賀市)の生まれです。 一級下の仲の良い竹馬の友に谷本景氏(陶芸家)がいます。 当時、伊賀焼の作家として破竹の勢いだった谷本光生氏(1916〜)はその父です。
 そんな環境に育ったため、光生先生の工房に入っては、なんとなく仕事の様子を眺めることも許されていました。 しかし、中学の頃から、岡本総長は将来、デザイナーになることを望んでいたといいます。 高校生の頃はクラブ活動で油絵を描き、通信教育ではデザインを学ぶという早熟振りでした。
 希望通り、大阪で専門的にデザインを学んだ後、独創的な仕事をする名うてのインテリア・デザイナーとして、早くから頭角を現します。 すると活動の範囲も広がっていき、一流を極めるにはと上京しました。
 とはいえ店舗デザイナーは肉体的にもハードで、シビアに採算性も求められ、この激務を長く続けることはできないのでは、と感じるようになります。 その頃から、一生現役でありたいと願う岡本総長の心中には、故郷の窯場で見た様々な想い出が、浮かんでは消えていきました。
 ・・・・そうか、装飾美術の一部として陶芸を捉え直し、デザインの仕事を土に置き換えてみたとしたら、どこまで表現の面白さを具体的に示すことができるのだろうか・・・・、などと考えはじめるようになります。
 しかしながら、これまで岡本総長の目に映っていた陶芸家のイメージにはまったく興味が持てず、方向性には迷いを抱きながらも新たな一歩を踏み出すべく、陶芸クラブの具体案を立て、唐突にも谷本光生先生の元へと車を走らせていたといいます。



●加守田章二との出会い

 ほどなくして、陶芸クラブに相応しいイメージ通りの物件が新宿区信濃町の駅前に見つかり、いよいよ「陶房九炉土」がスタート(1977年)しました。
 そんなある日、岡本総長は銀座の画廊街を歩いていたといいます。 老舗工芸ギャラリーの出窓の前を通りかかり、その時たまたま視界の隅に飛び込んできた強い印象の作品がありました。
 『・・・・こんな作品ができるのなら、陶芸は楽しいだろう』と、思わせるほどの示唆に富む作でした。 その展覧会とは、なんと加守田章二(1933〜1983)の「むね工芸」での初個展だったのです。 加守田章二はいうまでもなく、新しい陶芸の範疇やその取り組み方を自作を通して提示し、戦後陶芸界を牽引して、日本の現代陶芸史に足跡を残す偉大な作家のひとりです。
 「陶芸でこのようなことができるのなら、自己表現は可能だろう」と明確に思われ、こうして岡本総長の心の片隅にあった霧のような疑問や戸惑いは、すっきりと解消されたのです。 真の意味での陶芸アーティストとしての原点が、ここにあります。
 これまでの陶芸での表現はといえば、やはり伝統的な実用本位の器を中心に据えて展開するのが主流でした。
 加守田章二の作品に邂逅してほどなく、それまで岡本総長のなかに蓄積されていたアール・デコの芸術に感じられる美意識や情熱、さらに天才と称されるレオナルド・ダ・ヴィンチが遺した「創造の12章」に書かれた精神など、至高のインセンティブが幾重にも結びついた結果として、代表作「アール・ヌーヴォー・シリーズ」が誕生し、ひとつの結実をみるのです。
 周知の通り、現在に至る以降の創作活動は目覚ましく、たとえば、「アーテックス東京展」(主催=コンテンポラリーアート協会)や「花博」への特別出品などです。 特に「アーテックス展」では、今井俊満、永井一正、亀倉雄策、コシノ・ジュンコら・・・・、錚々たる内外の画家、彫刻家、グラフィック・デザイナーなども出品し、異ジャンルの優れた作家らと交流し、確かな地歩を築いてきたのです。  ■



My Principle
レオナルド・ダ・ヴィンチの「創造の12章」
  上右●ダ・ヴィンチの作った飛行装置(精度の高い縮尺模型)
  上左●花を活けた岡本総長の作品。(伊賀市「穏里庵」にて)


本質を捉えた言葉に共感

イタリアのルネッサンス期を代表する芸術家にして科学者でもあるダ・ヴィンチは、天才の誉れが高い万能の人。 そんな偉人が「創造の12章」という箴言を残しており、なかでも岡本総長はとくに「美と心」に言及されたものに強い共感を持っています。 2章「美しいものをたたえよう」、6章「ものをつくることを楽しみとしよう」、7章「よいものに敬意をささげよう」など。 創作への畏敬と暖かな視線が伝わってきます。





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