インターネット版 No.72 全3ページ 1 | 2| 3

1・茶とやきもの 48 ・・・ 「世の風潮に呼応して表れる季節感」
・ZOOM--UP 20 ・・・ 会津本郷焼の巻
2 ・使ってみたい!!釉薬 51 ・・・ 2号青銅釉
・使ってみたい!!釉薬 52 ・・・ 赤結晶釉+藁灰マット釉
・目にも旨い!男の簡単Cooking 42 ・・・ 鶏肉と揚げジャガのマスタードあえ
3 ・SCOOP ・・・ 陶芸ブティックに「招き猫」!
・BREAKING NEWS


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−−前号では、茶の湯が完成に至る前の一時期には、「花入」そのものが床の間に置かれ鑑賞されてもいた・・・・と教えていただきました。

安藤●では今回は、花入との関連もありますから、床の間と季節感についてもう少し話をしておきましょう。
 もともと床の間は、あたかもそこに高僧を招くかのように想定して作られたものです。 そして実際には、「書は人なり」というように、高僧によって書かれた墨跡を掛けるためであったのです。 ですから、床の間は一段高く設えてあるのですよ。 床の間が先にあったわけではありません。
 また草創期には、禅画が多く掛けられていました。 禅画は四季があるようでない世界が描かれています。

−−では、墨跡にはなにが書かれているのでしょうか?

安藤●禅には「不立(ふりゅう)文字」という言葉があります。 禅宗の基本的な立場を示したもので、つまり悟りは言葉によって書けるものではないので、言葉や文字にとらわれてはいけないという教えです。 結局、心で悟るものなのです。 ですから、墨跡は主に禅の規則や餞別、僧の遺墨などです。
 いわば高僧の書であれば、その方ですから、寺院に秘蔵されていました。 後に様々な変遷を辿り、茶の世界に入ってきたと考えられます。
 例えば、応仁の乱(1467〜77)では京都の寺院が焼失し、その復興のために大変苦労された方に、寺はその返礼として墨跡を差し上げたりしたのです。 遠州が所持していた「潮音堂」の墨跡ももとは東福寺の額字の原本であり、返礼として譲り受けたものといわれています。

−−なるほど。 やはりどこかで求めてくるような書ではないのですね。

安藤●それから、書かれた意味や内容によっても掛けられているのであって、季節によって用いられていたのではありませんからね。
 世の変遷・時代の風潮により四季の移ろいに目が向けられ、床の間に季節感が表れはじめます。 時代に応じて、茶の湯にも少しずつ変化が生じてくるのです。           
(構成・編集部)



ZOOM-UP <20>
会津本郷焼の巻 (あいづほんごう) 

 太っちょで粗直で朗らかで愛嬌で・・・・(中略)・・・・炉端や土間の持場についてよごれながら働いているのである。
 この愛着あふれる詩的な文章は、河井寛次郎が会津本郷焼に出会った喜びを綴ったものです。
 こうした日用雑器を、会津では「粗物」(そぶつ)と呼びます。 柳宗悦らの民芸運動をきっかけに昭和30年代には民芸ブームが興り、鰊鉢(にしんばち)に代表される会津粗物も注目されるようになりました。 以来、会津本郷焼=民芸の窯場というイメージが定着。 宗像亮一氏をはじめとして、民芸派の実力作家が活躍しています。
 しかし、皆さん、東北最古といわれ360年の伝統を持つ会津本郷焼には、もう1つの顔が・・・・。 そこにズーム・アップ!
 それは、磁器の窯場としての側面です。 もし本郷を訪ねるなら、資料館を訪れ、その伝統の一端に触れてみてください。 この寒冷の地で生まれた、有田や瀬戸にまったく遜色のない品格ある染付の器の数々を目にし、きっと感動すら覚えるでしょう。
 もちろん、現代の窯元も元気です。 富三窯では、染付の会津急須の逸品に出会えます。 早春窯はシンプルで朗らかな現代風の絵付が特徴。 また、伝統の山水文を得意とする窯もあります。

本郷瀬戸絵と呼ばれた精緻な染付の技が見所。



今も残る瀬戸蔵(後)の風景。

写真協力:会津美里町産業振興課
 清らかな用水路が土蔵造りの細工場を縫って流れる会津本郷、一度は訪ねたい、北の窯場です。



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