インターネット版 No.35  全3ページ 1 | 2| 3

1 ・特集 神々しき匠の技 板谷波山 (1)
2 ・特集 神々しき匠の技 板谷波山 (2)
3 ・とっておき WALKING POINTS (10) ・・・ 唐津(からつ)

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神々しき
板谷波山
◆「葆光彩磁花卉文花瓶」
 昭和初期

HAZAN ITAYA  1872-1963 
明治から昭和へ、3時代に渡って活躍した板谷波山は、日本の近代陶芸界の最高峰と評される作家です。
その波山作品で日本屈指の蔵品数を誇る出光美術館では、今「板谷波山展」が開催され、衆目を集めています。
●本項作品および素描は、いずれも出光美術館蔵。
●写真協力:出光美術館


◆「彩磁瑞花鳳凰文様花瓶」
1923(大正12)年


■重文に指定された作品 
 夥しい数が作られ、残されてきたわが国の近・現代陶芸作品のなかで、はじめて重要文化財に指定(2002年)された作品「葆光(ほこう)彩磁珍果文花瓶」を作ったのが、陶芸家・板谷波山です。
 この作品は、大正6(1917)年、作者が45歳のときに作られて、同年、日本美術協会展に出品し、最高賞の金牌を受賞、出世作となりました。
 胴の部分を三面の窓絵とし、それぞれに籠に盛りつけたたわわな桃、枇杷、葡萄という「珍果」を描き、その間には、鳳凰や羊、魚などが配されています。
 また器形はといえば、中国風な伝統的なものが選ばれているにもかかわらず、描法は線描によらず、むしろ西洋画のように表現されていて独特です。 一度見たらなかなか忘れられないような、実に端正で、いかにもこの作者らしい清潔感にあふれた、品格高い作品です。
 とくにこの作品は、作者自身も大層気に入っていたようで、「結果非常二良好ナリ」と記すほどの、会心の作でした。
 このように、陶芸家としての創造性と実力は、他の追随をいまだに許さない希有な陶芸家が、板谷波山だといえます。 


■「葆光」の輝き 
 明治5(1872)年、現在の茨城県下館市の旧家に生まれた板谷波山は、本名を嘉七といいます。 後に、故郷の筑波山にちなんで、「波山」と号するようになりました。
 東京美術学校(現・東京芸術大学)では、彫刻を専攻し、岡倉天心や高村光雲らに学びました。 やがて20代の半ば頃になって、本格的に陶芸に取り組み、31歳の時、東京・北区田端に住居と工房を建て独立します。
 明治時代の終わり頃から、代表的な技法のひとつとなる「葆光(ほこう)彩磁」の試作がはじまり、大正3(1914)年についに完成しました。
 この「葆光彩磁」(このページ一番上と一番下の写真参照)とは、釉下彩磁の一種で、彩磁に施釉する透明釉の代わりに、失透性の釉を掛けたものです。 技術的には、炭酸マグネシウムなどにより、釉中に極微の結晶を生じさせて得られた効果だと、考えられています。
また「葆光」の意味は、光を包み隠す、また、自然のままの光です。 そういえば確かに、一連の葆光彩磁作品を眺めていると、まるで薄絹や春の霞で器全体を被ったかのように、優しく穏やかな独特の光沢を放っています。 湿潤な日本固有の大気を通し、映し出されるような自然な表情、といわれるゆえんです。
 一方で、これほど高度な技法を、まだ科学的な窯業技術が発達していない時代に安定させ、完成の域に到達していることに、とても驚かされてしまいます。

◆鸚鵡が描かれ、エキゾチックな雰囲気が漂う波山の素描。


◆「彩磁草花文花瓶」
 1950(昭和25)年頃
 昭和初期に作家としての円熟期を迎え、戦後、陶芸家として初の文化勲章を受章しました。 ところがその後、88歳の時に重要無形文化財保持者(人間国宝)に推挙されたのですが、これを辞退します。 その理由ははっきりしませんが、老陶工の矜持だったかも知れません。 

◆「葆光彩磁鸚鵡唐草彫嵌模様花瓶」
 1914(大正3)年

★ 特集 板谷波山 2ページに続きます ★



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