全国旅手帖美濃焼(歴史・特徴−もっと詳しく)

織部といっても素地や釉薬、製法などの違いによって、青織部、総織部、志野織部、鳴海織部、赤織部、織部黒、黒織部といろいろな種類があります。この沓(くつ)茶碗は、銅緑釉を部分的に掛けて鉄絵を描いた、青織部と呼ばれるものです。
■美濃は、日本の陶都
 美濃焼と聞いたら、どんなやきものをイメージしますか……。
 そういえば、デパートの美濃焼コーナーには志野、織部、黄瀬戸といった、いずれも日本の美を象徴するような器が並んでいて、これらのいわゆる「桃山風」といわれるやきものの生誕地がこぞって美濃であることに、改めて驚かされたりします。一方で、備前焼や唐津焼のように確固とした1つの美濃焼スタイルが浮かんでこないのも、また事実です。そしてこれが、美濃焼は“特徴がないのが特徴”といわれるゆえんでもあります。
 つまり、それほどに多彩な製品が焼かれているということ。たとえば美濃焼の伝統的工芸品を見てみましょう。志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒にとどまらず、灰釉、天目、染付、赤絵、青磁、鉄釉、粉引、御深井(おふけ)、飴釉、美濃伊賀、美濃唐津と、なんと15品目が通産大臣の指定を受けています。また、和食器、洋食器とも全国シェアの50%以上、タイルは50%近くが、実は美濃焼です。
 「桃山陶の故郷」と聞くと保守的でディープな茶陶の里をイメージしそうですが、どうやら“何でもござれ”的なたくましさも併せ持つのが現代の美濃の実像といえそうです。まさに、「日本の陶都」というキャッチフレーズがピッタリの一大産地なのです。
 ところで、美濃焼の名は旧国名の「美濃」という地名に由来します。現在の行政区分でいえば岐阜県の東濃地方に当たり、多治見(たじみ)市、土岐(とき)市、瑞浪(みずなみ)市、さらに可児(かに)市と土岐郡笠原町を含む広範な地域が生産地となっています。とくに、多治見はその中心です。名古屋から距離にして36km、JR中央本線や中央自動車道が走る交通拠点で中部経済圏の一翼を担う位置にあるためか、各生産地から焼き上がった製品が集まり商業地としてもにぎわっています。それだけに多くの施設やショップが充実していて、美濃焼探訪の拠点とすれば、やはり便利です。そこで今回は、多治見を中心に現在の様子を見ていきましょう。
美濃では、予約をすれば工房見学ができる窯元もあります。公営、私営の作陶施設も充実。やきものの本場で、思いきり土と触れ合ってみましょう。
■「セラミックパークMINO」がオープン
 多治見には、盃の市之倉、徳利の高田、碗や丼の滝呂といった、もともと分業生産をしていた街々があります。古くからの窯元もこの地区に点在していて、たとえば市之倉には、人間国宝の加藤卓男氏が6代目をつとめた幸兵衛窯(現在の当主は7代加藤幸兵衛氏)をはじめ、玉山窯、仙太郎窯、住吉窯など、老舗の窯元が軒を連ねています。高田地区にある水月窯は、人間国宝だった伝説的陶芸家・荒川豊蔵の子息らが主宰する窯元です。また、比較的駅近くにも、リーズナブルでセンスのある和食器を提案して注目株の蔵珍(ぞうほう)窯があったりします。窯元では工房見学ができたり展示室で販売もしていますが、予約が必要な場合も多く、あらかじめ問い合わせておくのが賢い方法です。
 予約なしでも楽しめるのが、市内随所にある器店です。スーパー並みの大店舗から粋な老舗風、モダンなギャラリー風まで、扱い作家や器の見せ方に店主のこだわりと愛情が感じられ、窯元とは違った興があります。若手や旬の作家情報を得るチャンスも巡ってきそうです。また、前畑陶器など量産メーカーのショールーム兼ショップが見受けられるのも、大産地ならではの風景といえるでしょう。さらに、岐阜県陶磁資料館をはじめとした、公営や私営のやきもの見学施設・体験施設の充実ぶりも見逃せません。
 そして、個人の陶芸家たちにいたっては多治見はもちろん、美濃全域に居を構えて創作活動を行っています。隣接する瀬戸が日展系なのに対し、美濃では圧倒的に伝統工芸系の作家が多く、その頂点にある人間国宝を現在2人も擁しています。そして、このリーダーたちの仕事の軌跡を通して、美濃の作家群像が少しだけ見えるような気がします。
  加藤卓男氏は、桃山陶の伝統を継ぐ名窯の当主でした。しかしながら、個人の作家としてペルシャ陶器への想いを作品に昇華させ、ラスター彩で国宝の認定を受けました。かたや、鈴木蔵氏の認定理由は、ガス窯による現代志野を創造したことによるものです。同じく志野・瀬戸黒の人間国宝だった荒川豊蔵が、桃山陶を当時の技法で再現しようとしたのとは対照的で、あくまで現代技法にこだわったところに作家の気概を感じます。
 さて、現在多治見市では、古田織部の斬新な精神=オリベイズムを掲げて、古いものを生かしながらの新しい町づくりが進められています。多治見橋からのびる本町筋と市之倉地区が、その中心スポットです。また2002年秋には、陶磁器文化をテーマにメッセ施設、美術館、作陶施設などを整備した、これまでに類を見ない大プロジェクト「セラミックパークMINO」が東町にオープン予定です。ここを会場に、国際的なコンペティションとして定着した「国際陶磁器フェスティバル美濃」の第6回展も開催されます。
 町中が活気づく2002年。陶都・美濃の探訪は、そろそろ“旬”を迎えています!
■美濃焼物語
◎昭和5年の大発見
美濃が陶都として発展したのは、良い土に恵まれたことも大きな理由。たとえば「志野」は、この地方特有の珪酸分を多く含む鳥屋根珪石の性質をうまく利用したものといわれています。
 昭和5年(1930)、たった1つの陶片が、日本やきもの史上の“ナゾ”を解き明かすという大事件が起きました。のちに人間国宝となった荒川豊蔵による、「古志野筍絵陶片」の発見です。その日豊蔵は、3日前にある旧家で見た古志野茶碗とまったく同じ鉄絵の描かれた志野茶碗の破片を、美濃・大萱(おおがや)の窯跡で見つけ出します。それは、桃山の志野が美濃で焼かれた可能性を示す画期的な出来事でした。同時に、美濃焼にとって、輝かしい歴史を誇る幕開けとなったのです。
  陶片発見はまったくの偶然ではなかったといいます。
 瀬戸産といわれていた古志野茶碗を見た豊蔵は、高台に付着した土に見覚えがありました。それが生まれ故郷・美濃の土ではと見抜き、すぐに窯跡に赴き発見したというのですから、その慧眼と行動力、そして強運には驚かされます。その後の調査で、美濃一帯の窯場で桃山時代に志野が焼かれていたことが分かりました。続いて織部、黄瀬戸、瀬戸黒の古窯も発掘され、桃山陶が美濃産であることが立証されたのです。
 それにしても、なぜそれほど長い間ナゾだったのでしょう……。豊蔵の発見まで古志野の窯跡は特定されていませんでした。志野をはじめ、桃山の陶器が瀬戸で焼かれたのではと推測されていたからです。そういえば、美濃焼なのに“黄瀬戸”、“瀬戸黒”と瀬戸の名が付くのも不思議に思えます。その謎解きには、美濃焼の歴史をもう少しさかのぼってみる必要がありそうです。
◎瀬戸焼と呼ばれたのは、なぜ? 
美濃では古墳時代から須恵器が焼かれていたといいます。平安時代になると白瓷(しらし)と呼ばれた灰釉陶器が焼かれ、陶器産国として知られるようになりました。平安中期の律令の施行細則だった『延喜式』にも「陶器調貢の国」と定められたほどです。そして、鎌倉〜室町時代の無釉陶器、いわゆる「山茶碗」の生産へとつながっていきます。
 一方、室町後期の16世紀になると、鎌倉時代以降中国のやきものを模倣して施釉陶を焼いていた瀬戸の窯が戦国の戦乱を避けてしだいに移動し、美濃の地へやって来ました。現在の多治見市、可児市、笠原町付近です。これによって美濃では瀬戸仕込みの施釉陶器が生産されるようになり、安土・桃山時代の茶陶の隆盛へと突き進んでいったのです。
 こんな事情があったため、美濃で焼かれた施釉陶器も一般には瀬戸焼と呼ばれて流通していました。それに当時は「美濃焼」という窯名も存在せず、そう名乗るようになったのは江戸後期〜明治期とずっと後のこと。瀬戸黒、黄瀬戸という名前の由来も、どうやら、こんなところにあったようです。
 さて、日本の陶芸史に燦然と輝く桃山茶陶の時代、数々の名品はこの美濃の地で、いったいどのように生まれたのでしょう……。そもそも茶の湯の権威・千利休が、自身の侘び茶の理念を反映させた茶碗を、京都の陶工・長次郎に作らせた(1580年頃)ことが始まりでした。茶の湯の世界ではそれまでの唐物茶碗から一斉に創作物の茶碗へと流行が移り、それに素早く反応したのが美濃の窯場だったといわれています。
 つまり長次郎の黒茶碗からヒントを得て、「瀬戸黒」を誕生させたのです。これは、鉄釉を施した茶碗を焼成中の窯から釉薬が熔けている最中に引き出し、急冷して一挙に酸化させて漆黒の釉を得たもので、「引出黒(ひきだしぐろ)」とも呼ばれています。長次郎の黒楽茶碗とは異なる製法によるもので、当時の創意工夫には本当に驚かされます。続いて志野釉、黄瀬戸釉を開発し、やがて緑釉と鉄絵を組み合わせた「織部」が生まれました。今に語り継がれる桃山陶芸の黄金期です。この創造のパワーはまったく圧倒的でした。
 ところが17世紀の後半になると、これほどの桃山陶がやきもの史上から忽然と消えてしまいます。茶の湯の流行が変わり、また肥前生まれの国産の「染付」がもてはやされるようになって衰退したと一説にいわれています。当時を記録した文献もなかったことから、明治期に茶の湯が復興して桃山陶が再評価されるまで、その生産地さえも忘れ去られていきました。これら一連のいきさつがあって、桃山陶は明治期になっても瀬戸焼と漠然と信じられていました。美濃焼であることを立証した荒川豊蔵の陶片発見が衝撃的だった理由は、ここにあったのです。
 さて、桃山茶陶が消えても、美濃焼は日常雑器を焼く窯として続いていました。江戸時代には美濃青磁と呼ばれた「御深井」も生まれています。やがて江戸後期になって磁器の生産がはじまると、陶器から磁器へと急速に転換。近代化の波に乗って、明治〜昭和へと続く大窯業地への礎を築いていきました。
 現在は、名実ともに「陶の都」と呼ばれる美濃。時代をとらえる開放的な気風とダイナミックな対応力は、桃山以来の美濃の窯場に、今も確かに息づいています。

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