全国旅手帖美濃焼(歴史・特徴)

美濃焼写真 美濃焼タイトル

 美濃では古墳時代から須恵器が焼かれていたといいます。平安時代になると白瓷(しらし)と呼ばれた灰釉陶器が焼かれ、陶器産国として知られるようになりました。そして、鎌倉〜室町時代の無釉陶器、いわゆる「山茶碗」の生産へとつながっていきます。
 一方、室町後期の16世紀になると、鎌倉時代以降中国のやきものを模倣して施釉陶を焼いていた瀬戸の窯が戦国の戦乱を避けてしだいに移動し、美濃の地へやって来ました。現在の多治見市、可児市、笠原町付近です。これによって美濃では瀬戸仕込みの施釉陶器が生産されるようになり、安土・桃山時代の茶陶の隆盛へと突き進んでいったのです。
 日本の陶芸史に燦然と輝く桃山茶陶の時代、数々の名品はこの美濃の地で、いったいどのように生まれたのでしょう……。
 そもそも茶の湯の権威・千利休が、自身の侘び茶の理念を反映させた茶碗を、京都の陶工・長次郎に作らせた(1580年頃)ことが始まりでした。茶の湯の世界ではそれまでの唐物茶碗から一斉に創作物の茶碗へと流行が移り、それに素早く反応したのが美濃の窯場だったといわれています。つまり長次郎の黒茶碗からヒントを得て、「瀬戸黒」を誕生させたのです。これは、鉄釉を施した茶碗を焼成中の窯から釉薬が熔けている最中に引き出し、急冷して一挙に酸化させて漆黒の釉を得たもので、「引出黒(ひきだしぐろ)」とも呼ばれています。続いて志野釉、黄瀬戸釉を開発し、やがて緑釉と鉄絵を組み合わせた「織部」が生まれました。今に語り継がれる桃山陶芸の黄金期です。
 ところが17世紀の後半になるとこれほどの桃山陶がやきもの史上から忽然と消えてしまいます。桃山茶陶が消えても、美濃焼は日常雑器を焼く窯として続いていました。江戸時代には美濃青磁と呼ばれた「御深井」も生まれています。やがて江戸後期になって磁器の生産がはじまると、陶器から磁器へと急速に転換。近代化の波に乗って明治〜昭和へと続く大窯業地への礎を築いていきました。現在は、名実ともに「陶の都」と呼ばれる美濃。時代をとらえる開放的な気風とダイナミックな対応力は、桃山以来の美濃の窯場に、今も確かに息づいています。もっと詳しく

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