全国旅手帖益子焼(歴史・特徴−もっと詳しく)

益子の窯元でも、このような登窯による雄壮な焼成は、年々少なくなってきています。薪の炎という自然物に近いものを管理し、採算など合理性を追求するのが困難だからです。しかし陶芸作家などの間では、ガスや電気窯から、逆に登窯や穴窯などへの回帰現象が見られます。多少のリスクを冒してでも、より納得できる作品を焼き上げたいからです。
■益子の名を世界に広めた濱田庄司
 益子の町の風土に接して、イギリスのセントアイブスと同様な、素朴で、健康的な暮らしができそうだと感じたのは、後に人間国宝となり、文化勲章を受章した陶芸家・濱田庄司(1894〜1978)でした。やきもの作りをするうえでは、決して優れた素材とはいえないかも知れない益子産の土を使って、それでもなお大らかな、健やかな生命感にあふれた器が作れそうだと彼は考え、それを実践して見事に大成させたのです。その功績によって、益子の名は、日本はもとより、世界中に知られるほどの有名な陶産地になりました。
 栃木県芳賀郡益子町は県の南東部、八溝山地西麓にある人口26,000人ほどの正にやきものの里です。しかし、かつて大正時代のはじめ頃に濱田庄司が見たであろう、緩やかに起伏して連なっている丘や、のびのびと広がる田畑ののどかさなど、北関東のよき風景は、残念ながら開発がやや進み過ぎてしまって今はもうありません。
湯飲みの高台削り
ベテラン陶工による湯飲みの高台削り。電動ロクロのうえにシッタと呼ばれる台を据え付け、そこに乾燥を終えた湯飲みを伏せて置きます。次に手にしている金属製のカンナで、ロクロを回転させながら、迷いなくサッと削って形を整えていきます。
 戦後、昭和30年代から40年代にかけて、民芸ブームの波に乗りながら、益子は大繁忙期を迎えつつありました。
 首都圏一帯からやきものファンが押し寄せ、作ったものはなんでも売れるほど盛況だったといいます。同時に、新しい感覚で作り手を志す若者たちも、全国から益子にやってきました。新興の産地である分、伝統的な産地にありがちな閉鎖性やしがらみがなく、自由で気さくな雰囲気が益子にはありました。そして実際に、外国人を含めてこれまで多くの人々を受け入れ、刺激を受け、一層の発展をしてきた窯場といえます。益子にはそんな独特の懐深さと、開放的な明るさがあるように思えます。
 現在の益子には、生産規模の大小を問わずにいえば、およそ350軒〜400軒の窯元や陶芸家がいるといわれます。また町にある陶芸ギャラリーや器の専門店は、約60軒〜70軒。やきもの作りや販売に関連した仕事に従事しているという意味からすると、恐らくその何倍もの数になるでしょう。26,000人ほどの人口の町ですから、大袈裟ではなく、名実共に陶芸によって成立し、生活基盤を支えられている町といえそうです。
■第2の「ショウジ」と益子陶芸
 ベテランから新進の若手まで、益子には多くの陶芸家が工房を構えています。しかし作務衣を着て、ヒゲを生やしたようなタイプの陶芸家はあまり目にしません。むしろ、ジーンズにTシャツ、町ではRV車を颯爽と走らせる姿をよく見かけます。
 そんな産地・益子から、大スターが生まれました。現代の益子を象徴する陶芸家・加守田(かもだ)章二(1933〜1983)です。加守田章二は、大阪府岸和田市に生まれ、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)で陶芸を専攻、富本憲吉(色絵磁器の人間国宝、文化勲章受章者)や近藤悠三(染付の人間国宝)らから指導を受けました。卒業後は日立製作所(茨城県日立市)の大甕(おおみか)陶苑に就職し、近くにあった益子を知り、縁ができました。1959(昭和34)年には益子にアトリエを構えて独立し、いよいよ創作に没頭するようになります。そしてほどなく陶芸界の寵児また旗手、あるいは日本陶芸の鬼才などといわれるようになり、圧倒的な評価と名声を得て、加守田ファンは全国で爆発的に増加しました。作風は灰釉にはじまり、やがて曲線彫文、彩陶などへと展開され、造形も装飾もこれまでの日本の陶芸にはなかった独創的なものでした。

 そして、この加守田章二の作家としての成立や生き様などの特徴が、現代の益子を取り巻く状況に通底しています。つまり、これまでのような徒弟的なスタイルでない教育を受けて技術を修得し、産地に依存した、あるいは伝統的な様式の作品を作らず、あくまで個人作家としての表現を重んじようとしたのです。これを契機に、加守田に代表されるような陶芸家が益子には次々と移り住むようになり、現在でも、彼らはいわゆる民芸様式を認めつつも、それらからは距離を置いた作品を作っています。

 その結果、益子には個性的なやきものが多く見られ、ほんの一例でいえば、装飾としては志野や織部、染付や青磁、色絵、粉引……などなど、そこに益子の伝統ともいえる民芸様式なども加わって混在し、実に多種多様です。造形も実用的な器から、鑑賞を旨としたオブジェといわれる立体造形までが眺められ、まったく類型的ではありません。窯元にも作家にも、作りたいものを自らで決めて作るという、いわば創作の根幹がそこにうかがえます。そして、そのようにして生まれた百花斉放な豊かな陶芸の多様性こそが、現代の益子陶芸の最大の特徴となっているのです。
■益子焼物語
◎超有名産地の歴史は、150年
 益子町やその周辺地域から、奈良朝時代と推察される窯址が見つかっていますが、それ以降の史実がほとんど判然としていない状況です。したがって今日に続く益子焼の確かな起源は、笠間(茨城県)で陶技を身につけたといわれる大塚啓三郎が、現・栃木県茂木町から益子町にやって来て陶土を発見し、やきものを作りはじめた江戸時代の末期、1853(嘉永6)年の開窯とするのが一般的です。つまり益子焼は今からおよそ150年ほど前に興ったばかりであり、超有名な窯場の割りには、意外にもまだ新しい新興の陶産地だということがわかります。
 開窯の後、黒羽藩は益子における陶業を殖産事業とし、「益子瀬戸焼」と呼んで保護・奨励しました。

ロクロを中心に配される工房での一風景です。電動ロクロの右側には、作業中、手を湿らせるために水を張った手桶を置き、左にはロクロ挽きされた作品を並べる手板が配置されています。また障子窓の際には、作品のサイズを計るトンボと呼ばれる竹製の道具が無造作に置かれているのが見えます。
 また当時は、近隣の産地として益子より先んじていた笠間の製品に倣い、油壺や擂鉢などの生活雑器を主な製品として作っていました。焼き上がった器は、鬼怒川など河川を使って船で江戸まで運搬され、販売されていました。
 明治時代になっても陶業はさらに順調に発展し続け、地の利を活かして広く関東一円をマーケットとして出荷されるようになっていきます。主力製品はそれまでと同じく日常雑器でしたが、この頃は、土瓶や土鍋、片口や植木鉢などが多く作られていました。後に濱田庄司に激賞されることになった素朴な絵付が施された山水土瓶は、この当時誕生し、盛んに作られました。
 ところが明治末期になって、近代化を迎えた大消費地・東京の人々の生活様式が変化しはじめ、それが益子焼の製品にも影響をおよぼすようになります。家庭の台所には金属製品なども普及し、これまでとは違い、ライフスタイルが少しずつ西洋化しつつありました。また一方では、京焼など完成度の高い食器が台頭してきて、さらにライバルでもあった笠間焼の製品もより多く市場に出廻っていました。それらの事情によって、益子焼はかつてのようには販売できず、一時、生産過剰に陥ったりしました。それにより窯元では在庫の山がうず高く積まれ、益子にとっては、冬の時代の到来でした。
◎もうひとりの陶祖・濱田庄司
 時が移り、大正時代になってもまだ益子では不景気が続いていましたが、やがて益子焼は大きな転機を迎えることになります。
 大正12(1923)年、関東大震災が東京を襲います。衰退しかかっていた陶産地・益子では、震災のもたらした好景気により、息を吹き返します。味噌や砂糖を入れるための蓋付きの壺などが、飛ぶように売れました。そしていよいよその翌年、いわゆる民芸派の巨匠陶芸家・濱田庄司が、益子に工房を構えて制作をはじめたのです。1924(大正13)年は、今日ある陶産地・益子にとってのまさに再生・再興の端緒の年となり、またそれは、日本の近代陶芸史にも刻まれるほどの記念碑的な年でもあったのです。

白釉鉄絵の壺
白釉鉄絵の壺。どっしりとした安定感があり、健やかさが感じられる逸品です。巨匠・濱田庄司が築き上げた、典型的な益子民芸様式の作品といえます。
 大塚啓三郎に並ぶ2人目の陶祖といっても過言でない濱田庄司は、制作のかたわら町内の各窯元を見て回り、益子焼らしく健康的な器を作り、どしどし東京に売り込むようにと精力的に指導しました。
 そうした先見性に富んだ的確な指導によって、それまでは、単に市場から求められるままに雑器を作っていただけの窯元のなかには、益子焼を意識し、個性を大切にしたやきものを作りはじめる者が現れたのです。その結果、今日ある「益子焼」のイメージが、時とともに醸成されてできあがっていったのです。
 そして幸か不幸か、益子風はすなわち濱田(=民芸)様式となってイメージされ、益子焼の名は、濱田庄司の名声とともにますます広く浸透していきました。ついに1955(昭和30)年、その業績が評価され、濱田が「民芸陶器」の分野で人間国宝に認定されるのに呼応し、益子焼の名は世の中にとどろくようになり、陶産地として、今日あるような確かな地位と大衆的な人気を確立したのです。

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