全国旅手帖会津本郷焼(歴史・特徴−もっと詳しく)

■風土に培われた、北の陶芸
 白虎隊で有名な会津若松の市街から車で15分ほど行くと、リンゴ畑や蕎麦畑に囲まれた、のどかなやきものの里があります。  “東北最古の陶産地”といわれる、会津本郷です。
  会津盆地をほぼ南北に流れる清流・大川に接して開けた、人口6700人ほどの町。ふと視線を馳せれば、中世の山城跡が残る向羽黒山(通称・白鳳山)が迫って見えます。中心地にある「瀬戸町」という地名は、ここが、やきものの里として発展してきた証です。

会津本郷焼の陶器は、美しく実用的であることが信条です。民芸風陶器を焼く宗像窯7代当主の宗像亮一氏は、ろくろの名手として知られています。
 メイン・ストリートせとまち通りをはさんで、現在、18軒の窯元が点在しています。町を巡るにはレンタ・サイクルも重宝しますが、窯元の集中する瀬戸町界隈は、ぜひとも歩いて回るのがおススメです。なぜなら、ここ会津本郷は、観光的な派手さこそありませんが俗化せず、地方の窯場の大らかな雰囲気をほど良く残しています。散策がてらのんびり歩けば、自然風土に培われた陶郷の風情を、存分に体感できます。
 たとえば、工房や家々を縫って涼やかな音を立てているのは、大川から引き入れた水路です。かつてはここに水車が並び、水流を利用した土作りも行われていたそうです。そして、ときおり見かける土蔵作りの細工場。もともと蔵の多い会津ですが、凍てつく冬の寒さから陶工を守り、原料の泥土が凍るのを防ぐためのものでしょう。暗い室内でも細工や絵付をする手元に十分な明かりが入るよう、かなり低い位置に窓があるのが特徴です。
 こうした自然の豊かさと、それを生かそうとする陶工たちの知恵と工夫を見ていると、この寒冷の地で350年もの間やきものが焼かれ続けてきた事実が、なるほど、と思えてくるのです。
■民芸風陶器と染付磁器、どちらも会津本郷焼!?
 会津本郷焼といえば、どんなやきものをイメージしますか? おそらく、民芸風のどっしりした陶器を思い浮かべる方も多いのでは……。ところが、そうした陶器だけを伝統的に焼いているのは、実は、たった1軒だけ。むしろ、全体を見渡せば、染付や白磁などの磁器を焼く窯が多いのです。原料は、陶器は的場粘土、磁器は大久保陶石を使っていて、いずれも地元産です。


会津本郷焼の磁器の絵付は、染付が主体です。酔月窯の工房では、すべて手描きで作業が進められ、見学も可能となっています。
 つまり、会津本郷焼といえば陶器と磁器の両方を指し、これによって全国的にユニークな存在となっています。確かに、○○焼に依拠しない個人作家が集まる現代の窯業地では、素材の違いに関わりなくさまざまな仕事がされています。しかし、産地として同時に陶器・磁器双方の伝統を持つのは、まれなことといえます。
 さて、民芸風陶器を焼く老舗の窯元は、宗像窯です。展示室に並ぶのは、当主・宗像亮一氏(7代)の大物の鉢から、マグカップなどの食器類まで。飴釉、鉄釉、白釉などを使った温もりのある外観と、堅牢で実用的な実質を合わせもった器ばかりです。公募展などで頭角を現す8代・利浩氏が作る「利鉢」や「井戸茶碗」、妹の真弓氏のセンスある食器類も見逃せません。また、かつて濱田庄司や河井寛次郎が激賞したという会津粗物(粗物=日用雑器)の代表格「鰊鉢(にしんばち)」も、必ずチェックしたいものです。
 磁器の窯元は、それぞれに特徴的です。江戸時代から続くという富三窯では、会津磁器の伝統・急須などの袋物(ふくろもの)に出会えます。精緻な作りと華麗な絵付は、この窯ならでは。全国的にファンが多いのもうなずけます。手頃な価格で気の利いた食器を探すなら、早春窯や酔月窯をのぞいてみてはどうでしょう。早春窯は、シンプルでポップな染付や色絵が好印象です。陶芸家瀧田項一氏に師事したという田崎幸一氏が、会津磁器に新たなカラーを加えました。酔月窯は何といっても品数が多く、セレクトする楽しみが味わえます。ほかにも、山水や草花などの染付が伝統を感じさせる錦宝窯や鳳山窯など、多彩な作風の窯元が軒を並べています。
 さらに、采樹窯の佐藤幹氏をはじめ、近年は伝統にとらわれず自由な創作活動を行う陶芸家たちが輩出し、個展活動も行っています。また、三島象嵌を得意とする小松窯など、新興の窯元も育ちつつあり、今後の展開が注目されています。
 会津本郷は、東北地方最大の陶産地といわれています。それでも全国的に見ればこじんまりした規模ですが、作風が一元的でないところが何より楽しめます。しかも陶器・磁器とも製品のレベルが高いことに、きっと驚かれることでしょう。年に1度の「せと市」も、掘り出し物が多いとか……。
 2度3度と足を運びたくなる、お気に入りの窯里になるかもしれません。
■会津本郷焼物語
◎東北最古の窯場の起源
瀬戸町付近では、家々の周りを流れる清流が目を和ませてくれます。工房の裏手には水際へ続く階段があったりして、歴史ある陶郷の風情を醸しています。
会津本郷焼の発祥は、1593年、蒲生氏郷が若松城の城郭修理に際して播磨国(兵庫県)から瓦工を招き、屋根瓦を焼かせたのが始まりといわれています。はるか400年以上も前、安土桃山時代のことでした。
 実際に本郷の地でやきものが焼かれ始めたのは、1645年です。会津藩主・保科正之が、尾張国瀬戸出身の陶工・水野源左衛門を招きました。源左衛門は本郷村に原土を発見し、本格的に陶器製造を始めたのです。
 これが、会津本郷焼の、陶器の起源です。
 一方磁器の起源は、1800年のことでした。それに先立つ1770年頃には本郷村に良質な原土が発見され、藩では江戸から陶師を招いて磁器を作らせようとしました。が、あえなく失敗。やがて、佐藤伊兵衛がその焼成法を探るため西国各地の窯業地を回り、命がけで有田に潜入してその技術を得ました。伊兵衛が帰国すると、藩は備前皿山風の窯を築き体制を整えました。そして、とうとう悲願の磁器焼成に成功したのです(1800年)。ところが、この磁器の起源をめぐる秘話には後日談があります……。伊兵衛の功績で軌道に乗ったかに見えた磁器製造ですが、それに乗じて私腹を肥やそうとした町奉行がいました。本郷焼の将来を憂えた伊兵衛は、またしても決死の覚悟で奉行の悪事を訴え出ます。この訴えは認められたのですが、伊兵衛もまた上司を訴えた罪に問われ、なんと、鼻と耳をそぎ落とされてしまいました。
 毎年9月16日、会津本郷では陶祖祭が行われ、陶祖・水野源左衛門、磁祖・佐藤伊兵衛の2人をしのびます。とくに伊兵衛は本郷の人々に厚い崇敬を受け、その功績が今でも語り継がれているほどです。遠い出来事のようでいて、これも確かに、会津本郷焼の歴史のひとコマなのです。
◎磁器の隆盛と民芸ブーム
 やがて時代は移り、戊辰戦争による打撃、壊滅的な不況などが本郷を襲いましたが、かろうじて窯場は生き延びます。そして、1877年に内国勧業博覧会に出品して賞賛を得たのを機に、磁器生産の一大ブームが興ります。牡丹画を施した土瓶のアメリカへの輸出、碍子の大量受注などに窯場は活気づきました。しかし、それも押し寄せる近代化の波や、町を焼き尽くした大正5年の大火などにはばまれ、次第に衰微していきました……。 
陶器、磁器の双方が焼かれる会津本郷焼。いずれも原料は地元の土を使い、ろくろ挽きを中心に、タタラ、手びねり、鋳込みなどの手法で成形されます。
 再び会津本郷焼の名が浮上したのは、昭和30年代の民芸ブームのときでした。一貫して生活雑器を焼き続けてきた宗像窯の健康的な仕事ぶりに、柳宗悦、濱田庄司といった民芸運動の巨匠たちが注目し、エールを送ったのです。
 1958年にブリュッセルの万国博覧会で、宗像窯の鰊鉢がグランプリを受賞したことも弾みとなりました。これらが、会津本郷焼のイメージを一気に民芸陶器へと結びつけ、現在へと繋がっています。
 こうして、400年とも350年ともいわれる長い歴史を経て、栄枯盛衰を繰り返してきた会津本郷焼。それでも陶器・磁器ともに窯の火は消えず、さらに、若手たちが伝統の技を昇華させようとしています……。
 東北最古を誇る窯場は、きっと今日も穏やかです。けれども、確かに、いつか誰かの生活をうるおす器が、営々と作り続けられています。

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