全国旅手帖九谷焼(歴史・特徴−もっと詳しく)

■日本を代表する色絵磁器
 石川県能美郡寺井町は、日本海と山の間に挟まれた県の南部に位置する人口およそ15,000人ほどの町です。そしてなにより寺井町は、九谷焼の里としてよく知られていて、九谷焼の総生産量のおよそ80%ほどを賄い、まさに九谷焼の中心地として栄えています。とくに九谷陶芸村界隈には陶器問屋が軒を連ねていて、各ショーウインドーに美しい色絵磁器が展示されています。
寺井町は街のあちらこちらに、やきものが取り入れられています。たとえば橋の欄干や民家の塀に見事な色絵陶板が埋め込まれていたりして、モニュメントや風呂場のタイルにも九谷様式のの美しい絵が描かれていて驚きます。街のなかを歩くときは、注意深く観察してみて下さい。
 また多くの陶芸家の工房や窯元が町内各所に散在し、いつも制作に余念がない、活気あるやきものの街です。
 ところで九谷焼といえば、なにをイメージしますか? 白い磁肌に描かれた豪快、または華麗な色絵付が、すぐに思い浮かぶのではないでしょうか。なかには、九谷焼の名前は聞いたことがあっても、実物は見たことがない……とか、あるいは、ひょっとすると高級品というイメージが浸透しているかも知れません。いずれにしても、美しく鮮やかな磁器の器に関心を持っている人は、とても多いのではないでしょうか。 確かに、九谷焼は日本を代表する色絵磁器のひとつです。とくに九谷五彩といわれる緑・黄・紫を主とし、それに赤・紺青を補色とした5つの基本色によって描かれた上絵付は、九谷焼の生命といわれるほどの美しさです。このように、五彩によって描かれる色絵の技法は、現代まで脈々と受け継がれている九谷陶芸の重要なファクターとなっています。そして古くから様々なモチーフが、九谷ならではの洗練された装飾法によって描かれ、独特な色絵磁器となって完成されました。
■ござっせ! 九谷焼の故郷へ
 だからこそ九谷焼の上絵付は、匠たちの腕の見せどころともなります。それに個性を競い合うために、各窯元や作家によって絵付のタッチがかなり異なるのも興味深い点です。たとえば、繊細な花鳥が描かれたり、また器面全体を塗り埋めた青手古九谷風や、あるいは幾何学的な色絵模様の色絵磁器であったり、現代の九谷焼はまさに百花繚乱の様相です。
 しかし一方で、そのような上絵付を施すには、かなり熟練した高度な技術が必要といわれます。そのため九谷では、絵付は絵付専門にこなし、素地は素地作りの専門に任せ、また製品の販売は問屋が専門に商うという、分業化が徹底しています。ただ昨今の現代作家のなかには、制作から個展発表までを一貫して個人でおこなうことも、少なくありません。その場合は、工業的な生産とは異なり、個人陶芸家としての創作活動といえます。そしてそれらの陶芸家によって作られる作品は、伝統的な九谷様式を踏襲したものばかりではなく、現代生活のなかで使われる用途性を考慮したもの、あるいは独創的な装飾性を追求した作品も多く見受けられます。
 そういった様々な現代の九谷焼が俯瞰できるのが、九谷焼の故郷・寺井町の「九谷焼団地」です。ここを訪れれば、巨匠陶芸家の作品から、今すぐにでも食卓で使えそうな器まで、幅広い九谷焼を見て楽しみながら、またショッピングを楽しむことができます。

ベテランの手で、流れるように見事なロクロ成形の作業が進んでいきます。分業化が進んでいる九谷では、このように素地を作る専門家……きじ師が今も活躍しています。
素地が焼き上がると、作業は絵付にバトンタッチです。熟練の絵付師による色絵付は、いわば、九谷焼のもっとも九谷焼らしさを器に施す工程といえます。絵付の後、上絵窯で焼成すればやっと作品が完成します。
■九谷焼物語
◎突然廃窯した謎の古九谷
 江戸時代初期の明暦元年(1655年)頃、藩の肝いりで、山中温泉をさらに入った山奥に御用窯が築かれ、やきものの焼成が始まりました。それらは加賀百万石の文化の華麗な装飾性に強く影響され、これまでにない独特な様式美を確立した磁器として完成しました。それが、現代でも数寄者や古美術ファンなどによって珍重される、「古九谷」と呼ばれる名器の誕生の瞬間でした。
  加賀藩の3代目藩主・前田利常は時勢を見る才覚に優れた大名であるばかりでなく、殖産興業をはじめ、とくに陶芸や漆工などの工芸品や特産品の育成・発展に努めたことでも知られています。

陶芸村の近くの狭野神社には、九谷焼の陶祖を祀る陶祖神社があり、その入口には立派な九谷焼の壺を冠した地名碑が建てられています。ここに書かれた佐野という地名は、狭野に由来するのだそうです。また神社の裏側には、佐野古窯址の碑もあります。
 その加賀藩の支藩だった大聖寺藩の藩祖が、利常の三男・利治でした。利治は九谷で陶石が発見されたことに着眼し、家臣の後藤才次郎を早速、陶業の盛んな肥前国・有田に赴むかせ、窯業技術を修得させたのです。
 そして後藤が帰藩の後には製陶の指導者とし、九谷村(現在の石川県江沼郡山中町九谷)に窯を築いたといわれています。
 しかし、元禄年間(1688〜1703)の1701年頃、開窯からわずか40年後に突然、廃窯してしまいます。現在まで、閉窯のいきさつなどを知る手がかりとなる文献や資料も一切発見されず、まさに九谷焼は忽然と姿を消してしまったのです。さらに佐賀県有田の古窯跡から古九谷と同様の陶片が発見され、古九谷は実は有田で焼成されたという説もあります。また古九谷の素地だけが有田で焼かれたという意見、すべてが九谷で作られたとする見解など、古九谷の出自を巡っては諸説紛々です。こうした論戦は俗に「古九谷・古伊万里論争」などと呼ばれていて、いまだに結論は出ていません。
 そういった複雑な事情から、完成度が極めて高く優美な五彩の磁器・古九谷のミステリーは、さらに関心を呼んで、ますます深まっていくばかりです。
◎一世風靡した庄三の彩色金襴
 その後、およそ100年の空白期を経た文化年間(1804〜17)以降、「再興九谷」と呼ばれる諸窯が、加賀の各所に次々と開窯しました。代表的なものとしては、京都から名工・青木木米を招いて、金沢の卯辰山に窯を築いた加賀藩窯・春日山窯、若杉村の庄屋・林八兵衛の助力によって築窯された若杉窯、また古九谷再興を目標に掲げ、大聖寺の豪商・豊田伝右衛門によって開かれた吉田屋窯など、どれも個性的な九谷様式にのっとった作風を展開し、九谷焼の火がよみがえったのです。
 また天保11年に寺井に開窯した九谷庄三(くたに・しょうざ)は、彩色金襴の技法を確立し、花鳥風月をモチーフとした絵付で、世を風靡しました。明治時代になってからは、きらびやかな庄三の製品は貿易品としてももてはやされ、海外でも高い評価を得て、「KUTANI」の名をワールドワイドに広めました。しかし残念ながらこれらの諸窯も、いずれも長く窯煙を上げ続けることはできませんでした。
 そして明治以降、多くの絵付師や工人たちにより次々と新たな技法が創出され、現代の九谷焼へとつながっていきます。
 とくに九谷五彩といわれる緑・黄・赤・紫・青の5色を基本とした上絵を伝統としながらも、昨今では、新しい感覚のデザインや絵付、それに斬新な造形による作品も多く作られています。

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