■会津本郷焼物語 |
◎東北最古の窯場の起源
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会津本郷焼の発祥は、1593年、蒲生氏郷が若松城の城郭修理に際して播磨国(兵庫県)から瓦工を招き、屋根瓦を焼かせたのが始まりといわれています。
はるか400年以上も前、安土桃山時代のことでした。
実際に本郷の地でやきものが焼かれ始めたのは、1645年です。 会津藩主・保科正之が、尾張国瀬戸出身の陶工・水野源左衛門を招きました。 源左衛門は本郷村に原土を発見し、本格的に陶器製造を始めたのです。
これが、会津本郷焼の、陶器の起源です。
一方磁器の起源は、1800年のことでした。 それに先立つ1770年頃には本郷村に良質な原土が発見され、藩では江戸から陶師を招いて磁器を作らせようとしました。
が、あえなく失敗。 やがて、佐藤伊兵衛がその焼成法を探るため西国各地の窯業地を回り、命がけで有田に潜入してその技術を得ました。 伊兵衛が帰国すると、藩は備前皿山風の窯を築き体制を整えました。
そして、とうとう悲願の磁器焼成に成功したのです(1800年)。 ところが、この磁器の起源をめぐる秘話には後日談があります・・・。 |
瀬戸町付近では、家々の周りを流れる清流が目を和ませてくれます。 工房の裏手には水際へ続く階段があったりして、歴史ある陶郷の風情を醸しています。 |
伊兵衛の功績で軌道に乗ったかに見えた磁器製造ですが、それに乗じて私腹を肥やそうとした町奉行がいました。 本郷焼の将来を憂えた伊兵衛は、またしても決死の覚悟で奉行の悪事を訴え出ます。
この訴えは認められたのですが、伊兵衛もまた上司を訴えた罪に問われ、なんと、鼻と耳をそぎ落とされてしまいました。
毎年9月16日、会津本郷では陶祖祭が行われ、陶祖・水野源左衛門、磁祖・佐藤伊兵衛の2人をしのびます。 とくに伊兵衛は本郷の人々に厚い崇敬を受け、その功績が今でも語り継がれているほどです。 遠い出来事のようでいて、これも確かに、会津本郷焼の歴史のひとコマなのです。 |
◎磁器の隆盛と民芸ブーム
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やがて時代は移り、戊辰戦争による打撃、壊滅的な不況などが本郷を襲いましたが、かろうじて窯場は生き延びます。 そして、1877年に内国勧業博覧会に出品して賞賛を得たのを機に、磁器生産の一大ブームが興ります。
牡丹画を施した土瓶のアメリカへの輸出、碍子の大量受注などに窯場は活気づきました。 しかし、それも押し寄せる近代化の波や、町を焼き尽くした大正5年の大火などにはばまれ、次第に衰微していきました・・・。
再び会津本郷焼の名が浮上したのは、昭和30年代の民芸ブームのときでした。 一貫して生活雑器を焼き続けてきた宗像窯の健康的な仕事ぶりに、柳宗悦、濱田庄司といった民芸運動の巨匠たちが注目し、エールを送ったのです。 1958年にブリュッセルの万国博 |
陶器、磁器の双方が焼かれる会津本郷焼。 いずれも原料は地元の土を使い、ろくろ挽きを中心に、タタラ、手びねり、鋳込みなどの手法で成形されます。 |
覧会で、宗像窯の鰊鉢がグランプリを受賞したことも弾みとなりました。 これらが、会津本郷焼のイメージを一気に民芸陶器へと結びつけ、現在へと繋がっています。
こうして、400年とも350年ともいわれる長い歴史を経て、栄枯盛衰を繰り返してきた会津本郷焼。 それでも陶器・磁器ともに窯の火は消えず、さらに、若手たちが伝統の技を昇華させようとしています・・・。
東北最古を誇る窯場は、きっと今日も穏やかです。 けれども、確かに、いつか誰かの生活をうるおす器が、営々と作り続けられています。 |