全国旅手帖薩摩焼(歴史・特徴−もっと詳しく)

■薩摩焼の誕生
 薩摩焼の歴史は、文禄・慶長の役(1529〜1598)、別名「やきもの戦争」で朝鮮出兵した薩摩藩17代藩主島津義弘が80人以上の朝鮮人陶工を連れ帰ったことに始まります。
 串木野、市来に上陸した陶工・朴平意(ぼくへいい)や金海(きんかい)らは藩内各地に窯を開きました。各窯場では立地条件や陶工のスタイルによって異なる種類のやきものが焼かれ、それぞれ多様な展開をすることとなります。後にそれらの窯は苗代川系、竪野系、龍門司系、西餅田系、磁器系の平佐焼の5系統に分けられ、これら全てを薩摩焼と呼びます。現在も残るのは苗代川系、龍門司系、竪野系の3窯場です。
平佐焼 染付竹梅図双耳花生
平佐焼(ひらさやき)は1776年、今井儀右衛門が有田の陶工を招いて脇元に築窯したことに始まります。しかし、この窯は数年で廃窯、それを惜しんだ平佐の家老・伊地知団右衛門が平佐に窯を開かせたことから「平佐焼」と呼ばれました。有田焼にも使われる天草陶石を原料として白磁、染付、青磁、鉄絵、赤絵などによる日用雑器が多く焼かれました。

◆苗代川(なえしろがわ)系
 慶長4年(1599)、陶工・朴平意が串木野窯を開き、その後、苗代川(現・日置市東市来町美山)に移住します。当初は、黒薩摩(黒もん)や朝鮮から持ってきた白土を使い「火計手(ひばかりで)」などを主に焼いていましたが、やがて白陶土が発見され、1782年に白薩摩(白もん)の捻物細工を開始。1844年には錦手、金襴手へと発展しました。
◆竪野(たての)系
 慶長6年(1601)、陶工・金海(星山仲次)が藩窯として帖佐(ちょうさ、現・姶良郡姶良町)の宇都(うと)に開窯。火計手など白薩摩の元になるものが焼かれ、藩の保護を受けて主として献上・贈答用の茶碗や茶入など、古帖佐と呼ばれる茶陶を手がけました。また、竪野初期のものは古薩摩といわれ、竪野系は薩摩焼の主流をなしていました。明治維新で一時途絶えますが、明治32年(1899)、竪野系の絵師・有山長太郎が鹿児島市南部の谷山地区に長太郎窯として黒もんの窯を再興しました。

◆龍門司(りゅうもんじ)系
 慶長13年(1608)頃、陶工・芳仲(ほうちゅう)が加治木龍口坂に開窯。後に芳仲の養子となった山本碗右衛門(やまもとわんえもん)がこれを継承、新たに龍門司に築窯しました。黒もんを得意とし、肥前や京都、尾張の陶法に学んだ黒釉、鉄砂釉、青釉、三彩釉、鮫肌釉など多彩な釉を駆使した茶家(ちょか)やカラカラなど酒器を中心に均整の取れた、形の美しい茶陶や日用雑器が焼かれました。


竪野系
「金彩文具」20世紀前期 市来窯 市来美吉 作






龍門司系
■白もんと黒もん
薩摩焼は特徴の違いから「白薩摩」、「黒薩摩」の2種類に分けられます。
◎白もん
 白薩摩は「白もん」と呼ばれ、白陶土で丹精に成形し透明釉を掛けたもので、表面の細かい貫入(細かいひび)が特徴の一つです。
 現在の日置市で白陶土が発見されるまでは、朝鮮半島から陶工が持参した白陶土を使用し製作していました。それらは、火以外の材料や陶工技術が朝鮮のものであることから「火計手(ひばかりで)」と呼ばれていました。貴重な朝鮮の白陶土のみが頼りだった白薩摩にとって白陶土の発見は非常に重要な出来事となりました。
 白薩摩は藩窯の竪野系と苗代川系で焼かれ、藩や島津家だけが使用し、一般の人の目には触れることがありませんでした。藩は文化振興策の一環として京都に職人を派遣し色絵技法や金襴手を学ばせるなど技術の習得に努め、慶応3年(1867)には、島津藩単独でパリ万博に出品。白薩摩はヨーロッパの人々を魅了し「SATUMA」の名で広く知れ渡りました。


白薩摩龍巻花生 嘉永5年作
この花生は篤姫が斉彬の養女となる前年に作られたものです。丸十紋が入り、島津家にまつわる奉納品と考えられています。



指宿カオリン
「指宿カオリン」と呼ばれる白薩摩の原料です。白薩摩の原料は藩領内に数ヶ所あり、それらをブレンドして使っていましたが、この指宿カオリンは幕末から明治時代にかけて欠くことのできない原料の一つでした。
 象牙色の器肌に金、赤、緑、黄、紫色などで絵付けする色絵錦手や金襴手は陶器でありながら磁器のような繊細さで、その豪華で精緻な装飾は現在においてもなお多くの人々を魅了し続けています。
横浜薩摩
 横浜は江戸末期に国際貿易港として開港して以来、陶磁器貿易の集散地として発展。素地生産と絵付の分業が確立されると、数多くの絵付師が集まるようになりました。全国の主要産地から素地を集め、薩摩からも素地の状態で横浜へ運ばれたといいます。このように薩摩から素地を取り寄せ、横浜で絵付したものが「横浜薩摩」です。

 京焼とは区別され、輸出を目的として薩摩焼に倣って作られたのが「京薩摩」です。江戸初期には野々村仁清をはじめとする多くの名工を生み出した京焼が衰退した明治期に、需要を失った京都に替わって海外市場へ向けた製品として生産されました。
京薩摩
◎黒もん
 黒薩摩は「黒もん」と呼ばれ、白もんとは対照的に庶民の器として愛されてきました。桜島を擁する鹿児島は、火山地帯特有のシラス土壌で鉄分を多く含んでいるため、地元の土を使うと真っ黒い焼き物が出来上がります。鉄分が多い土を高温で焼き締めるため、素朴で頑丈な仕上がりが特徴。まさに普段使いにはうってつけの陶器となるわけです。黒釉、褐釉、蕎麦釉などを掛け、3系統の窯場で茶陶から日用品まで幅広く作られました。
代表的なのは焼酎の燗をする土瓶型の「黒茶家(くろじょか)」や、徳利の一種である「カラカラ」です。本来、薩摩焼はこの黒もんが主流で苗代川系の陶工たちが完成させたといわれています。
写真左「カラカラ」 写真右「黒茶家」
■現在の薩摩焼
 朝鮮から連れてこられた陶工たちのうち串木野島平に上陸した約40名が、故郷の風景に似ていることから、そこに窯を開いたといいます。この苗代川系の陶工たちは上陸以来江戸時代の終わりまで、故国を忘れることなく、言葉も服装も朝鮮であることを貫ぬきつづけました。そのため現在も美山は独特の風俗を持った陶里となり、400年以上続く名門・沈壽官の窯もこの地にあります。
12代沈壽官作。1873年、ウィーン万国博覧会に出品した大花瓶が進歩賞を受賞、西欧での薩摩金襴手の人気を決定づけました。
14代当主は司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』の主人公でも知られる色絵薩摩の担い手です。
 朴平意の末裔にあたる荒木陶窯では今も、朝鮮ゆずりの左まわしのろくろにこだわっています。独自の天然釉薬を使い祖先の心を大切に守りながら「苗代川焼」の保存継承に尽力しています。
 竪野系は現在、鹿児島市南部で黒もんを、龍門司系は加治木町北部で黒釉に青流しや飴釉、三彩釉に鮫肌や蛇蝎釉、玉流しといった多種多彩、そしてユニークな黒もんを製作しています。

広告