精緻な染付と、白磁の盛り上げ彫刻の作品。 盛り上げ彫刻は、途絶えていた出石の伝統技法を森垣豊氏が復興したものです。 |
■ユニークな磁器の産地 | ||
兵庫県の北部にある、こぢんまりと美しい城下町。そこが、出石焼のふるさとです。出石は、訪ねるには少々不便なところです。江戸時代に5万8千石の城下町として栄えながら、明治以降は鉄道の敷設を拒否したという興味深い歴史を持つこの町に駅はなく、最寄りの豊岡駅(山陰本線)から30分ほどバスに揺られなければなりません。それでも年間約100万人もの人を集める、なかなかの観光地です。「但馬の小京都」といわれる風情ある町並みのせいでしょうか。近年は手打ちそばブームもあって名物・出石皿そばも大人気! そして、もちろん出石焼が、そのにぎわいに一役買ってるようです。 さて、出石焼という名は、もしかしたらあまり聞き慣れないかもしれません。……ところが、日本の陶産地のなかでも出石は、ちょっとしたユニークな存在なのです。 なぜなら、ここでは、真っ白な「白磁」が中心に焼かれているからです。全国には有田(佐賀県)、瀬戸(愛知県)、九谷(石川県)、砥部(とべ・愛媛県)などメジャーな磁器の産地がありますが、いずれも色絵や染付を主体に焼いています。もちろん白磁も焼かれますが、やはり販売促進につながるのは華麗な色絵や親しみやすい染付といった、彩色された製品です。それらが産地の顔となったのは、ごく自然な流れでした。ところが出石ではこれが逆転し、むしろ白一色をウリにしています。 そこが、出石焼のユニークさであり、興味をそそられるところです。 |
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■窯元で出合う多彩な“白” | |
もっとも典型的な出石焼は、白磁の肌の表面を削って菊の花などを彫り込んだ花器や茶器などです。この白磁彫刻はろくろ成形のあと1週間ほど乾燥し、素焼前に熟練の陶工によって彫り込まれます。鉄分の含有量が驚くほど少ないといわれる柿谷陶石……。この良質な地元産の原料を誇り、生かそうという陶工たちの想いがこうした技法に結晶し、それによって出石は他の磁器の産地と傾向を画すことになったのです。 それにしても、観光客でにぎわう土産物屋に並んだ白磁彫刻ばかり見ていると、さすがに食傷気味……。でも、ご心配なく。各窯元には個性あふれる白磁の器や、近年増えている色釉や染付など、多彩な器との出合いがちゃんと待っています。 出石焼の窯元は現在7軒あります。明治から続く永澤兄弟製陶所、上田製陶所、川北製陶所、戦後に開窯した山本製陶所、比較的新しい森垣製陶所や虹洋陶苑などです。小さな町ですから、できれば全部回りたいもの。まずは、名門・永澤製陶所を訪ねてみましょう。 落ち着いたたたずまいの戸口を入ると、シブい「陶工 永澤」の暖簾。風格漂うほの暗い展示室には、4代永澤栄信氏の花器や壺がゆったりと置かれています。京都芸大で富本憲吉や近藤悠三など、そうそうたる巨匠たちに薫陶を受けたという4代。実力派の日展作家らしく、出石白磁の伝統を継ぎながらも、フォルムに個性が光ります。わずかに加えられた彫りや釉象嵌の装飾は、風や波といった自然現象のイメージ。ここでは、穏やかでいて緊張感のある、質の高い白磁作品に出合えます。 中心地のプロムナードを歩いていて、ハッと意表をつく人面の外灯オブジェに出合ったら、それは山本製陶所の当主・山本工二氏の作品です。展示室には、練り込みの作や、思わず花を挿したくなるようなクラフトっぽい白磁の器が並び、好感がもてます。 また、この近くには生粋の伝統工芸士・森垣豊氏の工房や、明治期の染付なども目にできる上田製陶所などもあります。こうして器探しに夢中になるうちアッという間に時間も過ぎて、ふと気がつけばお腹もペコペコ……。ならばグッド・タイミングです! ここでぜひ、出石皿そばをお試しください。もちろんそばもオススメですが、なにしろ出石焼の小皿にのって登場するのです。なかには永楽蕎麦など、古い時代のそば皿が並べてあったりして、「こんなコレクションもいいなぁ」と器探しの意欲もアップします。 さぁ、小京都・出石には、まだまだ見たい観光スポットもあります。1日ゆっくり見て出石に宿をとるもよし、志賀直哉の小説で有名なかの城之崎温泉(車で約40分)で外湯につかるのも、またオツなものかもしれません。そしてもし、3年に一度、全国規模で行われる磁器のみの公募展「出石磁器トリエンナーレ」の開催時期に出石を訪ねることができたら、これは、かなり欲張りな器の旅になることでしょう。 |
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白が生命の出石焼は、鉄分によるヨゴレが大敵です。工房では、すべての工程に神経を使い作業が進められます。 |
電気窯に窯詰めされた出石焼。登窯→徳利窯→電気窯やガス窯と、出石の窯焚きも時代とともに変遷してきました。 |
■出石焼物語 | |||
◎ルーツは有田? | |||
出石焼といえば、白磁です。「白すぎる白」といわれる磁肌と、それを生かす白磁彫刻は出石焼の代名詞であり、国の伝統的工芸品にも指定されています。でも、こうした白磁が出石焼の中心となったのは、出石焼の創始からみれば実はずっと後のこと。意外にも明治以降のことでした。 では、出石焼とは、そもそもどんなやきものだったのでしょう? その起こりは江戸時代の1764年、出石町の泉屋治郎兵衛と伊豆屋弥左衛門という人が土焼(つちやき)の窯を築いたことに始まります。つまり多くの磁器の窯場と同じく、出石焼は初め、陶器だったのです。 その後1789年になり、二八屋珍左衛門が石焼(いしやき)を思い立ちます。出石藩よりお金を借りて有田におもむき、数十日滞在して磁器の製造法を学び、有田の陶工を連れ帰りました。そこで石焼きを始めようとしたものの、資金が乏しく、珍左衛門は結局丹波に移ってしまいます。有田の職人は一人残され、やむなく先の伊豆屋の土焼職人になったといいます。この伝承が、出石磁器創始の通説です。ところがこれには異論もあり、連れ帰ったのは有田ではなく、平戸の職人ではなかったか? また1789年に石焼は焼かれず、したがって出石磁器の創始は、現代の出石焼に直結する磁器が焼かれた1793年であるという研究成果もあるようです。 こうして産声を上げた出石磁器ですが、その後も道のりは平坦ではありませんでした。やがて、新たな石焼窯の稼働をみずして伊豆屋の事業がいき詰まると、1799年、出石藩は窯の直営に踏み切ります。そしてこの頃、柿谷や谷山で良質の陶石を発見。それにともない窯を谷山に移し、満を持して藩窯での磁器製造を開始します。当時の藩窯で焼かれたのは伊万里系の染付や白磁で、質の高いものでした。しかし、経営は思うに任せず藩窯は民間委託→払い下げという経緯をたどります。 |
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◎救世主・盈進社(えいしんしゃ)の登場 | |||
出石の窯業がようやく活気を帯びたのは、江戸も天保年間(1830〜44)のことでした。各所に民間の窯が興り、伊万里風の染付雑器が盛んに焼かれました。白磁もまれに焼かれましたが、やはり全体的にみて江戸期の出石焼は伊万里を模倣した雑器の域を出なかったようです。やがて民窯の多くは幕末を迎え、閉山していきます。 そしてとうとう、現代の「白すぎる白」のルーツを築いた「盈進社」が登場します。明治に入り1876年に設立された盈進社は、幕末の廃藩によって失職した士族の師弟たちを集め、指導者に鍋島藩窯の御細工職人だった名工3名をあてた、いわばエリート集団でした。指導者たちは伊万里の原料にも勝る柿谷陶石との出合いに喜び、鍋島藩窯の技術を注いで、子弟を育て、出石焼を改良していったといいます。その結果、清冽・精緻な白磁が誕生! パリ万国博覧会など内外の博覧会に出品・賞賛を浴び、全国に出石焼の名をとどろかせることとなったのです。 さて、その後の盈進社ですが、残念ながら高級品指向が需要と合わず、1885年には解散しています。ただ、盈進社の残した遺産は大きく、これ以降人々は伊万里から脱却し、出石焼のアイデンティティー(=白磁)を持ち得たのでした。明治以降も窯元の興亡は続きますが、試験所を設けたり、積極的に技術改良を進めています。 苦難のなか、ドラマチックに展開しながら庶民の日用雑器を焼き続けた出石焼。やがて、先進産地の量産攻勢に押され、しだいに趣味的なやきものが主流となってきました。現在は、作家活動をする人あり、伝統の白磁彫刻を極める窯あり、軽やかな日常の器を作る窯ありと、白磁をめぐる多彩な試みが展開されています。 |