全国旅手帖出石焼(歴史・特徴)

出石焼写真 出石焼タイトル

 出石焼は江戸時代の1764年、出石町の泉屋治郎兵衛と伊豆屋弥左衛門という人が土焼(つちやき)の窯を築いたことに始まります。その後1789年になり、二八屋珍左衛門が石焼(いしやき)を思い立ちます。出石藩よりお金を借りて有田におもむき、数十日滞在して磁器の製造法を学び、有田の陶工を連れ帰りました。そこで石焼きを始めようとしたものの、資金が乏しく、珍左衛門は結局丹波に移ってしまいます。有田の職人は一人残され、やむなく先の伊豆屋の土焼職人になったといいます。この伝承が、出石磁器創始の通説です。
 1799年、出石藩は窯の直営に踏み切ります。そしてこの頃、柿谷や谷山で良質の陶石を発見。それにともない窯を谷山に移し、満を持して藩窯での磁器製造を開始します。当時の藩窯で焼かれたのは伊万里系の染付や白磁で、質の高いものでした。しかし、経営は思うに任せず、藩窯は民間委託→払い下げという経緯をたどります。
 出石の窯業がようやく活気を帯びたのは、江戸も天保年間(1830〜44)のことでした。各所に民間の窯が興り、伊万里風の染付雑器が盛んに焼かれました。そしてとうとう、現代の「白すぎる白」のルーツを築いた「盈進社(えいしんしゃ)」が登場します。明治に入り1876年に設立された盈進社は、幕末の廃藩によって失職した士族の師弟たちを集め、指導者に鍋島藩窯の御細工職人だった名工3名をあてた、いわばエリート集団でした。指導者たちは伊万里の原料にも勝る柿谷陶石との出合いに喜び、鍋島藩窯の技術を注いで、子弟を育て、出石焼を改良していったといいます。その結果、清冽・精緻な白磁が誕生! パリ万国博覧会など内外の博覧会に出品・賞賛を浴び、全国に出石焼の名をとどろかせることとなったのです。現在は、作家活動をする人あり、伝統の白磁彫刻を極める窯あり、軽やかな日常の器を作る窯ありと、白磁をめぐる多彩な試みが展開されています。もっと詳しく

広告

広告

広告