インターネット版 No.107
本展覧会は河井寛次郎が自らの設計により建築した住居兼工房を、寛次郎没後に一般公開された河井寛次郎記念館が開館40周年を迎えたことを記念して開催されます。 河井寛次郎陶芸の全貌を、初期の作品から、寛次郎の哲学や人生観までもが表出する晩年の作品まで、約150点を一堂に展示。今なお河井寛次郎記念館に息づく、寛次郎の宇宙観が表現されています。 |
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五条通りを南側へと渡り、六兵衞窯の横の路地を奥に入り、進んでいくとすぐ左手に、重厚な構えの民家が見えてきます。 これが「河井寛次郎記念館」です。 |
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1937(昭和12)年に建てられた寛次郎の自宅・工房が、そのまま記念館となって公開されています。 玄関の重い引き戸を開けて、足を一歩踏み入れた途端、独特の雰囲気に体全体が包まれたように感じます。 | |
どっしりと堅牢な柱や梁が組まれた、やや薄暗い室内。 黒光りする板の間や家具、建具・・・・。 これらすべてが、寛次郎自身のデザインだといいます。
そして、そこかしこ置かれた自作の陶芸作品や木彫など。 ここは正に、創作家・河井寛次郎の強烈な個性だけが感じられる異空間そのものです。 |
河井家はいつも千客万来で賑やかでした。 建物のデザイン設計、電球の笠、テーブルや脇息に竹の椅子など、自らがデザイン、考案したものばかり。 | |
左●5代清水六兵衞から譲り受けた寛次郎の登窯。 高温で還元焼成のできる、下から2番目の房を好んで使っていました。 右●記念館の中庭。 手前に見える丸い石は、石灯籠の代わりに置かれ、 時々、自らで置き場所を変えていたそうです。 (いずれも「河井寛次郎記念館」にて) |
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陶芸家・河井寛次郎(1890−1966)は、島根県に生まれました。 東京高等工業学校(現・東京工大)に学び、卒業後は、京都市立陶磁器試験場に勤務します。
1920(大正9)年に独立し、京都・五条坂に鐘渓窯を築きました。 その後、濱田庄司を介して知り合った柳宗悦らとともに、民藝運動に参加、傾倒していきます。
それにより「民芸派の陶芸家」と呼ばれることもしばしばです。 しかし、寛次郎の遺した陶芸作品の特徴は、類型的に「民芸様式」と分類できるものでなく、近代作家として自己の表現を追求した結果の奔放で骨太な個性豊かな陶芸作品といえます。 |