インターネット版 No.79  全2ページ 1 | 2

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「 小堀遠州
  美の出会い展 」
小堀遠州(こぼりえんしゅう)/
狩野探幽(かのうたんゆう)両筆 
「松原の絵賛(まつばらのえさん)」

遠州が自作の和歌を書き、探幽が
松原を描きました。

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当代一流の文化人と接して育まれた才能
   
  
小堀遠州は、江戸時代初頭の大名茶人であり、また総合芸術家としてもよく知られています。 この「遠州」の名を名乗るようになったのは、1608(慶長13)年から。今から数えてちょうど400年前のことでした。
遠州茶道宗家13世家元 小堀宗実氏
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1956年生まれ。学習院大学卒業後、大徳寺派桂徳禅院にて禅修業。83年に副家元に就任。2001年に家元を継承。東京茶道会理事。
分かりやすい美しさが遠州の特徴
 本展を監修したのは、遠州茶道宗家13世家元の小堀宗実氏。家元によれば、織部以前の、いわば本人にしか理解できない世界観に比し、遠州は独自の美「綺麗さび」を創出し、客観的で、誰が見ても分かりやすいのがその特徴といいます。


  
寛永文化を代表する存在

 小堀遠州は、15歳の頃から武将茶人・古田織部について茶の湯を学び、その秀でた才能を感じとった織部は、自身の後継者として遠州を認めています。
このように遠州の美意識は、若い頃から当代一流の文化人と接することで育まれ、また3代将軍・家光の庇護の元、さらに大きく開花したといわれています。
 そして30歳の時、徳川家康の居城である駿府城の作事奉行を命じられ、その功績によって「遠江守」に任ぜられます。 このことから、以降「遠州」と呼ばれるようになりました。
 45歳から69歳で亡くなるまでの間は伏見奉行を勤め、後水尾天皇などの皇族や公家、大徳寺の僧・春屋宗園や沢庵、また徳川家光、前田利家など将軍や大名、 さらに池坊2代専好や本阿弥光悦ら文化人など、枚挙に暇なく幅広く交流します。
 遠州の優れた美意識は、造園、数寄屋建築、築城にまで及び、まさに華やかな寛永文化を代表する存在だったといえます。
 本展ではとくに、遠州が選定した「中興名物」や、指導して作らせた国焼の高取、丹波、志戸呂などの茶陶、「遠州好み」の名品の数々が、縁の人々との交流を物語る手紙や、添え書きなどとともに展示されます。
「青磁中蕪花入 吉野山」
(せいじなかかぶらはないれ よしのやま)
(大名物)
高21.5 径11.8cm、梅澤記念館蔵

「熊川茶碗 銘 ・千歳」
(こもがいちゃわん めい・ちとせ)
(中興名物) 高9.0 径13.9cm 五島美術館蔵
                                                                                                    

  
■およそ150点の作品で辿る遠州の美意識
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 遠州好みの優品に改めて接し、じっくりと作品鑑賞できる本展は、8つのパート(一部は松屋会場のみ)に分けられて展示されます。 たとえば中興名物や国内外の窯場に注文・指導して作らせた道具類、さらに会席膳、遠州400年の系譜など・・・・。
 それによって、遠州の背景と側面、秀でた美意識の源泉などまでも垣間見え、傑出した大名茶人の、また歴史的美の巨人としての遠州の魅力に、多角的な切り口からアプローチできる必見の展覧会です。

「御本狂言袴水指
(ごほんきょうげんばかまみずさし)」
高17.7 径19.1cm
■「小堀遠州 美の出会い展」
■会期 ・ 会場
  ・07年12月30日(日)〜08年1月14日(月)・・・東京 ・銀座松屋
  ・08年2月23日(土)〜3月16日(日)・・・名古屋 ・松坂屋美術館
  ・08年3月19日(水)〜31日(月)・・・神戸 ・大丸ミュージアムKOBE
■入場料  一般=1,000円、  大高生=700円

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