薩摩焼・伝統の名窯
15代 沈 壽官さん
訪問記
400年を経て受け継がれる九州の陶磁
前号に続く特集、「九州やきもの散歩」の旅。岡本立世総長(陶房九炉土主宰、九炉土千駄ヶ谷校総長、陶芸指導プロ養成塾塾長)の九州諸窯視察の同行記は、いよいよ薩摩焼の里・美山へと向かいます。
工房脇には大甕が並べられ、夏の日射しと木陰が美しいコントラストを見せていました。
15代 沈 壽官  Jukan Chin 15th
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1959年に鹿児島県に生まれる。83年、早稲田大学を卒業。84年に京都市立工業試験場修了。85年、京都府立陶工高等技術専門学校修了。87年にベルナルド・コンペディション(フランス)入選。88年、イタリア国立美術陶芸学校卒業。同年、チルコロ・フィオーレ(イタリア)入選。90年、韓国にてキムチ壺制作。99年に15代沈壽官を襲名。2000年、明知大学(韓国)客員教授に就任。同年、鹿児島・山形屋にて襲名展。02年に日本橋・三越にて襲名記念展。03年、京都伝統工芸館にて「沈壽官家歴代展」を開催。06年、日本橋・三越にて個展。
座敷の屏風にあるがまま、この陶家には、いつも爽やかな風が流れていると感じました・・・。
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沈家の格式と矜持

 鹿児島本線の伊集院駅からなら車で10分ほど、かつて苗代川と呼ばれ、現在の地名でいう日置市東市来町美山に到着します。
 ここが400年の歴史を誇る薩摩焼の里で、今も15軒の窯元が煙を上げています。 なかでも、かつて献上品として焼かれた白薩摩を焼くのは、その内の6軒の窯。 今もそれぞれの伝統に則り、作り続けられています。
 薩摩藩から士族として取り立てられ、また御用窯として藩から庇護を受けていた名門・沈家は、武家屋敷らしい面影をあちこちに色濃く残しながら、4世紀の時を経てきた窯としての格式と矜持を、今もこの地で静かに守り通していました。
「八角皿」
 展覧会のためにご多忙中とは伺っていましたが、風が通る涼やかな座敷に私たちは招じ入れられ、15代沈壽官さんは快く取材に応じて下さいました。
 細やかに客をもてなしながらも、薩摩隼人らしく泰然としている方だと思えました。
 そんなふうに見える15代の作る白薩摩は、つとに定評があります。 とくに極めて微細な網目状の貫入がびっしりと入った素地の美しさは、また格別です。
 「蝉の羽のような貫入が入っているのが、白薩摩の理想ですね」と沈さんはいいます。
 この言葉を受けて、今度は岡本総長が、「どんな狙いで、どういう種類の土を使っているのですか?」と専門家としての立場から話題を向けました。
 すると当代は、急に前に乗り出すようにして、「素地土は陶器としての温もりと、白の清潔感を残す土作りをいつも大切にしたいと思っています」。
 創作家としての本音が垣間見られたような気がしました。




数々の名品が焼かれた沈家の登窯。ほかに「温度差を3度以内に抑える」必要から、丸窯も使うそうです。

工房では20人ほどの職人が、ロクロ、透彫り、糊入れ、絵付などを分業で行います。特に透彫りなど細密な作業はもちろん、 全員が仕事に集中していて心地よい緊張感がありました。



 
武家門をくぐり植え込みの間を進んでいくと、正面に壽官陶苑の作品展示・販売所が見えます。
ここには15代の新作や窯ものなどが展示されています。薩摩焼の高貴な作りが堪能できます。

壽官陶苑/鹿児島県日置市東市来町美山1715  TEL.099-274-2358
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壽官陶苑の収蔵庫には、沈家歴代の代表作品や関連資料などが展示されていて 、400年の重い歴史を知ることができます。壁に飾ってあった鶴の木型(左上)がレリーフのように見えました。
 
15代沈壽官「亀甲小皿」(表と裏)
金彩と赤絵が上品な文様としてあしらわれているのが、控えめながら強い印象を残します。
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誠実と情熱の薩摩焼

 さらに沈さんは、「そうすると結局、市販の土は使えず、あちこちから粘土を運んできてはブレンドし、自分で作るしか方法はないんですよ」と、付け加えました。 15代の語り口が一気に熱を帯びてくるのが分かりました。 同じもの作りである岡本総長との対話に、触発されているのだと思われました。
 続けて「土には記憶があるんです」と沈さんは切り出し、「ですから、成形するときには土に余分な負荷をかけないよう気をつけています」と言います。
 精巧な薩摩焼、ことに香炉などの二重透しなど、気の遠くなるような繊細な細工ものの成形時などに、狂いが生じる原因となるからことさら慎重です。
 それは例えば、ロクロ成形の時にも反映され、土ころしをあまりせず、 しかも一回で伸ばすところを、二度、三度と分けて挽き上げ、土を労ることを意識しながらの作業の連続です。
 素材を愛おしみつつ、かつ大切に扱う様や、ひとつの香炉の透彫りに1カ月ほども費やすことなど、薩摩焼に対する誠実な思いが、ひしひしと伝わってきました。
 岡本総長の「当代の作品の特徴は、土の温もりと清潔感を併せ持った白い素地と、美しい発色がとくに印象深い赤絵にありますね」という感想に対しては、 「赤絵の具は、まるで老婆が縁側で居眠りをするように、ゆっくりと力を入れずに擦るといい色になるんです(笑)」と当代。
 いかに熱を持たせないように擦るのかが、よい赤絵を仕上げるためには肝心だといいます。 そうユーモラスに語る内には、寛容な人柄も滲んでいました。
 堂々たる薩摩隼人は、しかしその内面には、巧緻を極めた透彫りや、華麗微細な絵付を得意とする窯の指導者に相応しい、繊細さと気配りを併せ持っているのがはっきりと窺えます。
 「いい仕事とは、ごまかさずに誠実にやること。 私たちは人のできることはやらない、できないことをやります」
 
 15代沈壽官「翔鶴皿」
   伝統的な鶴の意匠が、典雅な雰囲気を漂わせた秀作です。
 
 400年間、一子相伝で李朝陶芸の秘法を継ぎ伝え、薩摩の歴史とともに生きてきた沈壽官家の当主としての自信は、揺るぎないと感じつつ、私たちは美山の窯里をあとにしました。
取材:2006年7月




薩摩伝承館 [さつまでんしょうかん]
外観 ロビー
ロビー奥にはレストランも併設されています
(レストラン詳細はビューポイント<観る・遊ぶ>の
「お食事/名産品」をご覧ください)




苗代川系の陶工によって1844年、白薩摩の装飾技法に錦手が加わりました。さらに金彩を主体とした薩摩金襴手へと発展、多くの製品が海外へ輸出され、高い評価を獲得しました。
圧倒されるほど金装飾が加えられた見事な壷



■金襴の間

作品の背景は伝統技術・金箔押しによる金が敷き詰められた壁。薩摩は金の産出量が日本一、背景の金箔の使用量は10cm四方の金箔がなんと10,000枚!






背景に張り巡らせた金箔が詳細に伺えます









15代沈壽官 作
「海外から見た薩摩」をコンセプトしている薩摩伝承館の所蔵品は当時、輸出品として製作された作品が主体となっています。海外用は装飾品として製作され、1対になっているものがほとんど。現在、里帰り薩摩130点を所蔵しています。




■十字の間

大型化した金襴手薩摩焼の一方で、小型ながらも多様な形と繊細な絵付が施された作品も数多く作られました。
「十字の間」では豊かな造形表現と繊細緻密な絵付の逸品を目前でじっくりと鑑賞することができます。





芝山象嵌(しばやまぞうがん)とは、下総(千葉県)芝山の大野木専蔵が江戸後期に考案した技法で、漆面に象牙や貝、サンゴなどを象嵌して文様を描いたものです。
明治時代、万国博覧会などで人気を博した芝山象嵌は欧米に向けて盛んに輸出されるようになります。
金襴手同様、この箪笥にもエキゾチックな絵模様が描かれ西欧人の異国趣味を反映した作品となっています。
花鳥人物芝山象嵌箪笥 19世紀







<右>
<左>

「人物図獅子乗大飾壷(1対)」
薩摩 19世紀後半
高さ162cm、薩摩金襴手の中でも最も大型と考えられる飾り壷です。
このような大型で華やかな作品は、西欧では大建築を飾る室内装飾品として迎えられました。左右対称のデザインが好まれたので1対で作られ、金彩を多用し隙間なく文様が描かれています。描かれているのは、片面は日本の武人、もう片面は唐子となっています。



■薩摩の間 (2F)

「薩摩の間」では幕末から明治にかけて日本を牽引した薩摩の姿、そして西欧との文化交流を西郷隆盛ら明治の偉人に焦点をあて紹介しています。
西郷隆盛像
薩摩勲章(復元)
薩摩勲章(写真右下)はナポレオン創設のレジオン・ドヌール勲章を参考に作られたといわれています。しかし、完成前に江戸幕府は崩壊、当時の図面をもとに復元されました。また、西郷さんの羽織も展示されており、試着も可能(写真左下)。実際に羽織って、西郷さんがどれだけ大柄な人であったか実感することもできます。



「パリ万国博覧会1867」―ジャポニスムブームの火付け役
1867年に開催された「パリ万国博覧会」は日本が初めて参加した国際博覧会です。江戸藩、薩摩藩、佐賀藩が参加し、特に薩摩藩は独自に「日本薩摩琉球国太守政府」の名で特別展示を行い薩摩焼をはじめとする産物を約400箱も出品しました。
西欧の人々は、はるか遠い日本からやってきた美術・工芸品に大いに惹きつけられました。いち早く日本の美術を取り入れたフランスの画家たちから始まり、一般の人々まで、パリ万博によってジャポニスムのブームは一気に過熱していったといえるでしょう。
また、日本独特の風習や文化へも注目が集まりました。万博会場でひときわ人気を集めたのが柳町芸者が日本茶のおもてなしをするというサービスだったといいますから、西欧の人々が日本文化へ興味津津であったことがよく分かります。
西欧では、室内装飾として迫力ある大型の薩摩焼が人気を博す一方で、バックル、ボタンといった小物もまた人々を魅了しました。本来はボタンとして輸出されたものを、金具を装着して指輪に仕立て直して身につけていたというエピソードは西欧の人々が薩摩金襴手に宝石と同等の価値を見出していた証といえるでしょう。
京薩摩
婦人図蝶形バックル(手前)
薔薇文ボタン(奥)


また、日本の染織に魅了された西欧の人々は小袖をコートやドレスに仕立て直し、ファッションに取り入れました。その後、着物のもつゆとりの考えはコルセットから女性の体を解放しようという西欧のファッションの概念を変えるまでとなりました。
小袖のドレス(復元)


取材:2009年7月
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