「茜大皿−長江−」
高4.5 径46.5p


◎ピカソと青磁の「青」 

 今回の展覧会について三浦小平二氏は、「私の知られざる作品展です。 試行錯誤の時代であり、私の青≠フ時代である。 いろいろやったんだなあと思っている」といいます。 自らを、まだ歳若かったピカソの不遇時代に重ね合わせ、またさらに、模索するなかに青磁の道へと進む端緒をつかんだという意味も含ませて、「青」の時代といっているように受け取れます。
 
 『人生(ラ・ヴィ)』という大作に、ピカソの「青の時代」の特徴が凝集しています。 孤独や悲嘆など、特有ともいえる切迫した感情を主題にした絵で、この時期の他の作品も同様に、作者の内面世界が鋭く表現され、画面全体が哀しい青色で被われています。 そんなピカソに共通する時代が、三浦氏にもありました。 

「色絵花瓶−マサイ−」
高20.0 径20.5p


◎至高の青磁への道のり 

 1933(昭和8)年に新潟県・佐渡の無名異焼窯元の長男として生まれた三浦小平二氏は、東京芸大の彫刻科を卒業しました。 卒業後、いったん故郷に帰るものの、家業を継いで5代目とはならず、島を飛び出します。 その後、京都や多治見でやきものの修業を積み、芸大の陶磁研究室の副手に就きました。 しかし、副手といっても当時は無給。 経済的にも安定せず、苦しい生活が続きました。 また、日本伝統工芸展に作品を応募しても落選が続く、苦渋の時代でした。

 落選の理由を考えながら、自作を客観的に眺めると、無名異焼の素材や技術に固執したばかりに、表現の幅が狭くなっていることに気がつきました。 もっと広い視野に立って仕事をしよう、と思ったといい、そしてこのことが転機となりました。
 

2点とも「鉄絵茶碗−ホロホロ鳥文−」
左 高7.3 径15.0p、右 高6.0 径12.6p
 焼締め、鉄絵、灰釉、黄瀬戸…など多岐な作風を経て、1970年代のはじめ頃に鈞窯・辰砂に行き着きます。 鈞窯は藁灰釉を展開した結果としてあり、藁灰を厚掛けし銅を入れて還元焼成すると、辰砂になります。

 そのことと、灰釉を施して還元焼成した「灰釉小鉢」が、たまたま越州窯風な青磁に焼きあがった経験とが重なり、将来の青磁への道が少しずつ定まっていきました。 鈞窯も青磁も、基本は同じ灰釉でした。 つまり、灰釉を厚く掛けて還元焼成すれば、青磁になったのです。

 その後、台湾の故宮博物院で官窯青磁の逸品を見て作域に活かし、一層深みのある作品が焼成されるようになりました。 そして、伝統工芸展で文部大臣賞を受賞(1976年)するなど、ようやく青磁作家としての頭角を現すようになりました。 すでに、43歳になっていました。

 同時に、その頃から中近東諸国やアフガニスタン、中国など、シルクロードへ取材の旅をするようになりました。 そしてその成果は、青磁に色絵を施した独特の作品に結実しました。 砂漠の民や風物が暖かい視線で捉えられ、それらが色絵と染付、さらに青磁で美しく表現された作品には、三浦小平二氏の構築する固有の世界観があります。

 故郷・佐渡の土、悩みながら試した多様な技法と作品、そして旅をしつつ描いたスケッチや大きな感動など。 それらすべてが渾然一体となって、人間国宝・三浦小平二氏の至高の青磁作品となって完成しています。
 

上:軸装「トルファンにて」(部分) 縦34.7 横45.5p
トルファンは「吐魯番」と書き、中国北西部の辺境の地・新彊ウイグル自治区にある盆地です。各々の土地の人物や風物が生き生きと活写され、微笑ましささえ感じられるのが、これらの絵の特徴です。

左:軸装「ヘラートへの道」 縦72.7 横56.0p
イランに近いアフガニスタン西北部にある都市・ヘラート。ラクダに揺られる母子が実に愛らしく描かれています。


国立近代美術館工芸館所蔵作品



取材:2002年「三浦小平二展―知られざる世界―」


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