◎おいでませ、「茶陶」の町へ
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日本海に面した風光明媚な自然と城下町の町並みは、そのまま大河ドラマのロケ地になりそうです。 吉田松陰が教えた松下村塾があったことから、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など明治維新前後に活躍したそうそうたる傑物が巣立ち、「維新のふるさと」とも呼ばれています。 萩は、そんな歴史のヒーローが通りにフッと現れそうな町。 やきもの目当てに訪ねて日本屈指の観光地を同時に味わえるなんて、全国でもそうはありません。 ですから、旅のスケジュールは、ゆったり組むのがお勧めです。 それに萩焼には大きくいって2つの奔流があり、そのため長門市、山口市にも窯元が分散しています。 できれば萩を拠点に、そちらにも足をのばしてみましょう。 ところで、萩焼とはどんなやきものでしょう? 「一楽、二萩、三唐津」という言葉があります。 これは侘茶でいう優れモノの茶碗をランクづけしたもの。 400年ほど前に藩窯として誕生以来、萩は「茶の湯のためのやきもの=茶陶」の窯場として発展してきました。 典型的な特徴といえば、淡いビワ色や白色をした柔らかな焼き上がりで、使いこむほどに茶や酒がしみ込んで肌が変化するさまは、「萩の七化(ななばけ」とか「茶馴れ」といわれ茶人に珍重されています。 これは大道土(だいどうつち)という砂礫の多い地元産の土を、低下度でじっくり焼くことによってもたらされるもの。 つまり、あまり焼き締まらず、吸水性に富んでいるのです。 釉薬は土灰釉とワラ灰釉が主体です。 白濁が濃いものが「白萩釉」や「白釉」、薄いものが「萩釉」などと呼ばれ、多くの作家や窯元で使われます。 こうしてみると萩焼は意外とシンプル。 一見、装飾性が乏しいとも思えます・・・。 たとえば雑器の窯場などでは、素朴でも、装飾のバリエーションが豊かなものです。 けれど武士の茶の湯を背景に生まれたこのやきものは、多彩さよりも、土味の深さや芸術性が重視されたのでしょう。 現在、萩では茶陶だけでなく食器も盛んに焼かれますが、こうした伝統は、作家たちの意識の底にしっかりと根付いているようです。 |
◎器探しは、感性に響く1点狙いで
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町なかに一歩入ると、「萩焼」の看板が目につきます。 土産物屋の店先には廉価な萩焼湯呑みが並び、これを旅行客がまとめ買いする姿を見ると「陶産地というより観光地」にきたんだなぁと実感してしまいます。 でも店の奥にずんずん入ると茶碗や水指、花入などの茶器が、ズラリ。 この光景は産地としての「萩」の縮図のようだと感じるのです。 茶陶という太い幹、しっかり枝葉をはった固有の販路、その根元を支え栄養をもたらすのが観光客というふうに。 産地ではおなじみの「陶器市」が開かれるようになったのも平成になってからと聞いて、ちょっとビックリしました。 なるほど、茶陶の廉売も難しく、また、あえて集客の必要のない恵まれた産地といえるのかもしれません。 さて、そんな萩でのショッピングは、高級品でなくとも、なにかしら感性に響く1点を求めて巡ってみるのはいかがでしょう。 とくに茶に興味がなくても、新進の陶芸家らが手掛ける新感覚の器たちが、ときめく出会いを待ってます。 そこで、事前にインプットしておきたい実践ポイントを紹介します。 まず、萩市内は見学地が大きく2地域に分散していること。 @美術館やショップ・ギャラリーが多く、観光の中心でもある城下町周辺と、
これらを心に留めたら、萩焼探訪へスタートしましょう。 まずは一路、城下町の中心にある「ぎゃらりい彩陶庵」へ直行し、萩の作家たちの現況や作風などを品定め。 周辺には菊谷家住宅をはじめとした観光スポットが並んでいるので、ブラブラひやかしながら「山口県立萩美術館・浦上記念館」や「石井茶碗美術館」など、萩ならではの見学施設はしっかり押さえます。 そのあとは、名門の窯元や「萩焼ゆうび」などがある松陰神社周辺へ足をのばすもよし、市内各所にある作家の専売店や、窯元の即売所を丹念に巡るのが収穫もありそうです。 また萩には登窯をもつ窯元も多いので、この際、ぜひ見学したいものです。 ただし、これには事前予約が必要なこともお忘れなく。 ずっと前からほしかった白い器――。 ここ萩でなら、出会えるかもしれません! |
■萩焼物語 | |
◎李朝風+織部スタイル=萩
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なぜ、やきもの戦争といわれたかといえば、朝鮮に派兵された諸侯が帰国する際、多くの朝鮮陶工を日本へと連れ帰ってきたからです。 結局このことが後に、日本の窯業、とくに西日本の陶産地に歴史的な、多大な影響を与えました。 各産地の飛躍的な発展、あるいは産地としての勃興・開窯は、これら朝鮮から連行されてきた陶工の技術に依存していることは否めません。 そして萩焼も、そんな成立のプロセスをたどった産地のひとつです。 文禄・慶長の役の後、関ヶ原の戦いで石田方に味方して敗れた大名・毛利輝元は、徳川家康により領地を減じられ、安芸の国から萩へ移封させられることになりました。 その折りに、藩主とともに萩に移った朝鮮出身の陶工・李勺光(りしゃっこう)やその弟・李敬(りけい)らが中心となり、萩市の松本に御用窯(御用焼物所)を築き、本格的な作陶をはじめることになります。 これが萩焼の創窯です。 今からおよそ400年前のことでした。 当時の窯は、全長が30メートルを超えるほどだったことが、最近の発掘調査などで明らかになっています。 恐らく当時は、大量の食器と若干の茶器が、ひとつの産業といえるほどのシステムで焼かれていただろうといわれています。 また李勺光の死後、勺光の子は山村新兵衛光政を名乗って、御用窯の責任者となる命を受け、一方、李敬は高麗左衛門に任じられました。 そのようにして発展・展開した初期の萩焼は、当然ながら、朝鮮のやきものと共通した雰囲気を持っています。 と同時に、毛利輝元や毛利秀元が古田織部と親交していたことから、当時流行していた「織部様式」も次第に取り入れるようになります。 李朝のやきものに織部様式が融合し、今日に連なる萩焼独自の様式基盤が形成されていきました。 |
◎揺るがない茶陶の里の地位
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江戸時代初期の明暦4年(1658)に、山村新兵衛(李勺光の子)が亡くなります。 その少し前、新兵衛の弟子たちは、萩から西に20キロほど離れた長門市深川の三ノ瀬(そうのせ)に新しい窯を築きました。 やがて藩が新兵衛の子供を三ノ瀬焼物所の責任者に命じると、弟子たちは一斉に萩から深川に移ってやきもの作りをはじめました。 これを深川萩とか深川焼、あるいは三ノ瀬焼などとも呼んでいます。 しかしそうなると、松本御用窯の方は不如意となり、徐々に規模を縮小せざるをえませんでした。 そのため藩は、松本窯の減産をサポートするため、新たに三輪窯と佐伯窯のふたつの窯に、御用を代行するように命を下しました。 三輪窯の初代は三輪忠兵衛(休雪)で、もちろん現在まで確かな系譜を辿ることができます。 また佐伯家の方は、残念ながら6代で断絶してしまいました。 こうして紆余曲折しながらも、17世紀中頃には、松本御用窯と三輪窯+佐伯窯、そして長門深川の三ノ瀬の2系統の窯から煙が上がっていました。 それらの窯で焼かれた萩焼は、登窯を用いて、比較的低火度でゆっくり時間をかけて焼成される陶器です。 そのために土は硬く焼き締まっておらず、どちらかといえば、器の印象としても柔らかな雰囲気を持っているのが特徴です。 さらに吸水性にも富み、長く使ううちに茶などが素地に浸透していき、著しい色彩的装飾変化が見られます。 それを茶人らは「茶馴れ」といって、古くから珍重してきたのはよく知られています。 そして現在に至るまで、数ある陶産地のなかにあっても、茶陶の里としての地位は揺るがず、創窯以来、萩焼の火が絶えることはありませんでした。 |
取材:2002年 |