神々しき匠の技 | ◆「葆光彩磁花卉文花瓶」 昭和初期 |
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板谷波山 | |||
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HAZAN ITAYA 1872-1963 |
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明治から昭和へ、3時代に渡って活躍した板谷波山は、日本の近代陶芸界の最高峰と評される作家です。 |
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●本項作品および素描は、いずれも出光美術館蔵。 ●写真協力:出光美術館 |
◆「彩磁瑞花鳳凰文様花瓶」 1923(大正12)年 |
■重文に指定された作品
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夥しい数が作られ、残されてきたわが国の近・現代陶芸作品のなかで、はじめて重要文化財に指定(2002年)された作品「葆光(ほこう)彩磁珍果文花瓶」を作ったのが、陶芸家・板谷波山です。 この作品は、大正6(1917)年、作者が45歳のときに作られて、同年、日本美術協会展に出品し、最高賞の金牌を受賞、出世作となりました。 胴の部分を三面の窓絵とし、それぞれに籠に盛りつけたたわわな桃、枇杷、葡萄という「珍果」を描き、その間には、鳳凰や羊、魚などが配されています。 また器形はといえば、中国風な伝統的なものが選ばれているにもかかわらず、描法は線描によらず、むしろ西洋画のように表現されていて独特です。 一度見たらなかなか忘れられないような、実に端正で、いかにもこの作者らしい清潔感にあふれた、品格高い作品です。 とくにこの作品は、作者自身も大層気に入っていたようで、「結果非常二良好ナリ」と記すほどの、会心の作でした。 このように、陶芸家としての創造性と実力は、他の追随をいまだに許さない希有な陶芸家が、板谷波山だといえます。 |
■「葆光」の輝き | |
明治5(1872)年、現在の茨城県下館市の旧家に生まれた板谷波山は、本名を嘉七といいます。 後に、故郷の筑波山にちなんで、「波山」と号するようになりました。 東京美術学校(現・東京芸術大学)では、彫刻を専攻し、岡倉天心や高村光雲らに学びました。 やがて20代の半ば頃になって、本格的に陶芸に取り組み、31歳の時、東京・北区田端に住居と工房を建て独立します。 明治時代の終わり頃から、代表的な技法のひとつとなる「葆光(ほこう)彩磁」の試作がはじまり、大正3(1914)年についに完成しました。 この「葆光彩磁」(このページ一番上と一番下の写真参照)とは、釉下彩磁の一種で、彩磁に施釉する透明釉の代わりに、失透性の釉を掛けたものです。 技術的には、炭酸マグネシウムなどにより、釉中に極微の結晶を生じさせて得られた効果だと、考えられています。 また「葆光」の意味は、光を包み隠す、また、自然のままの光です。 そういえば確かに、一連の葆光彩磁作品を眺めていると、まるで薄絹や春の霞で器全体を被ったかのように、優しく穏やかな独特の光沢を放っています。 湿潤な日本固有の大気を通し、映し出されるような自然な表情、といわれるゆえんです。 一方で、これほど高度な技法を、まだ科学的な窯業技術が発達していない時代に安定させ、完成の域に到達していることに、とても驚かされてしまいます。 |
◆鸚鵡が描かれ、エキゾチックな雰囲気が漂う波山の素描。 ◆「彩磁草花文花瓶」 1950(昭和25)年頃 |
昭和初期に作家としての円熟期を迎え、戦後、陶芸家として初の文化勲章を受章しました。 ところがその後、88歳の時に重要無形文化財保持者(人間国宝)に推挙されたのですが、これを辞退します。 その理由ははっきりしませんが、老陶工の矜持だったかも知れません。 |
◆「葆光彩磁鸚鵡唐草彫嵌模様花瓶」 1914(大正3)年 |