三井記念美術館 | |
三井家伝来茶の湯の名品 | |
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三井記念美術館は、平成17年10月に日本橋のこの地に移転開設されたもので、
江戸時代以来300年に及ぶ三井家の収集文化遺産を展示している。 三井記念美術館が設置されている三井本館の建物は、昭和初期の日本を代表する洋風で重厚なものであり、国の重要文化財に指定されている。 美術館の入り口は、隣接して建設された超高層ビル「日本橋三井タワー」に設けられている。 ビルには、マンダリンオリエンタル東京ホテルを中心に千疋屋総本店などが店を構え、三越本店の隣に位置する。 三井グループで知られる三井家は、江戸時代初期に松坂出身の家祖・三井高利が1673年江戸本町に「越後屋」を開店したのが始まり。 所蔵する美術工芸品は、現在約3700点、 このうち国宝が6点、重要文化財が20点、重要美術品が44点を数える。 美術工芸品は茶道具が中心で、展示室には国宝茶室「如庵」の室内が再現されている。 「茶の湯の名品」展では、所蔵品の中核をなす、国宝「志野茶碗 銘 卯花墻」が如庵に展示されていてその存在感は何物にも勝る堂々たるものであった。 他には、重要文化財「黒楽茶碗 銘 俊寛」、大名物「唐物肩衝茶入北野肩衝」を始めとした惚れ惚れするものばかり、古三島茶碗 二徳三島、大名物 粉引茶碗 三好粉引、 大井戸茶碗 上林井戸、中興名物 玳皮盞(たいひさん)、など等。 花入では、古伊賀特有の強いデフォルメと自然釉のダイナミックななかにも気品の感じられる「伊賀耳付花入 銘 業平(なりひら)」。 水指で一際目を引いたのがやはり古伊賀で、デフォルメの強い器形ながら焦げ色にくすみ、わびた趣が漂う「伊賀耳付水指 銘 閑居(かんきょ)」であった。 ただ残念なのが、これほどの国の宝にもかかわらず、ここにあることを知らされる機が少なく暗い部屋で息を凝らしているのかと思えることである。 (R) |
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21_21 DESIGN SIGHT | |
「U-Tsu-Wa/うつわ」展
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21_21 DESIGN SIGHTは、東京ミッドタウンの一角に有り、デザインの視点からさまざまな提案をしている。 東京ミッドタウンにはサントリー美術館、隣接して国立新美術館、森美術館と六本木はアートの中心地ともいえる。 この度同館で開催された、陶作家ルーシー・リィーのうつわ展は、三宅一生氏と安藤忠雄氏両氏の手の込んだ演出によるものであった。 ルーシー・リィーは、1902年ウィーン生まれ、1938年ロンドンに移住、第二次大戦後、ボタン制作と共に陶芸を始めるが認められず苦労の日々が続く。 作品は電気窯による一度焼きでボールなどシンプルな形が多い。 晩年、三宅一生氏との出会いが有り、彼女の作品に惚れ込んだ三宅氏の手によって日本での展覧会となった。 日本での知名度は低く、広報もあまりされなかったのか、こだわりの会場構成にも拘らず来場者が疎らであったのが残念。 新名所となった東京ミッドタウンガーデンサイド3Fにはサントリー美術館もあり、周辺の公園や桜もライトアップされていて夕涼みの散歩コースとしても最高。(R) |
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滋賀県立陶芸の森は、信楽焼をベースに世界の陶芸の潮流を導き入れ、創造と遊び、自然と産業・芸術が一体となった公園として設立されたもので、「陶芸館」
「信楽産業展示館」 「創作研究館」がそれぞれの役割を担っている。 「信楽産業展示館」は、信楽焼の産業製品の展示紹介を中心とし、各種イベント、見本市、異業種交流の場として利用することができ、2008年9月13日からは、「第46回朝日陶芸展」が開催されていた。 同展は、朝日新聞社が主催するもので、愛知県を中心に開催される公募展である。46回を迎えた本年度は、469点の力作が競い合い、わずか82点が入選というレベルの高い陶芸作家の登竜門としての役割と陶特有の美しい材質感を伝える目的を果たしていた。 しかし、本展をもって最終回となったのが残念である。 (R) |
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イタリアの巨匠、カルロ・ザウリ(1926〜2002)回顧展がこの程、東京国立近代美術館、他で開催。 現代陶芸の偉大な改革者たる作品のダイナミズムに感銘を受けた。 日本ではまだまだ評価の芸術価値が低く、工芸品の一分野としか扱われないこともある陶芸だが、世界は違う。 ザウリの作品はあきらかに芸術であり、用途などまるで感じさせるものではない。 寸分の狂いもなく計算され、デザインの優れたフォルムは、粘土だからできる自由で繊細なもの、シンプルに “ザウリの白” と呼ばれる釉薬が施され、1200度の高温で焼成された幽玄の美が醸し出されている。 日本でも、やきものの道に興味を持つ若者の中に、日常の器を作る職人はちょっと・・・と言いながらも土の魅力にはまる人が増えている。 ただレベルの高い造形物の成形や表現のデザイン性を指導できる学校や先生が少なく、また、それを評価できる審査員を置く公募展がまだ少ないのが課題である。 東京での会場となった、国立近代美術館は、東京メトロ東西線「竹橋駅」徒歩3分とアクセス、環境も良く、開催される展覧会も魅力的なものが多い。 たまにはのんびり東京駅「丸ノ内」から並木やお濠を眺めながら、ぶらりと歩いてみてはいかがでしょう。(R) |
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「侘び茶」の創始者、村田珠光(1423〜1502)は、華美な唐物趣味から「求道」へと茶の湯を高め、堺の豪商・武野紹?(1504〜55)へと受け継がれ、さらに千利休(1522〜91)によって茶の湯が大成された。その茶の湯の道はやがて武士の間にも浸透していくこととなる。 筒井定次は、大和の国の筒井順慶(1549〜84)の甥。 天正十二 年順慶の死によって家督を継ぎ、天正十三年(1585)8月、豊臣政権の土着大名掃蕩策によって大和郡山から伊賀の国主となった。 破袋(やぶれぶくろ)水指<五島美術館 ・ 重要文化財>や、古田織部が、秘蔵の伊賀焼花筒を上田宗箇から無理に所望された際に「花筒つめをはがし候やうに存候、宗是ことつて進入候、我等より参候茶入、宗是に可被遺候。 来春万々可得貴意候間、不能詳候」と手紙に書き、愛蔵していたこの花生を譲るのは、爪を剥されるような思いであると述べている、この花生、のちに「生爪」(なまづめ)と呼ばれている等は「筒井伊賀」である。 藤堂高虎は、茶の湯の心得の深い武将で、織部との関係も密接なものであった。 茶道具、美術品を数多く収蔵し、名陶伊賀焼を産出する伊賀の領主として、その保護奨励を行った。 小堀遠州政一は、天正七年(1579)近江国坂田郡小堀邑の土豪の家に生まれ、号を孤篷庵(こほうあん)と称した。 小堀遠州は高虎と同様、幕府の作事奉行として数多くの築城と建築、造園にたずさわった。 遠州と高虎は特に関係が深く、ともに秀吉の弟、秀長の家来でもあった。 |
<谷本光生 作品> <谷本 景 作品> 1948年 谷本光生の長男として生まれる |
<谷本 貴 作品> 1978年 谷本 景の長男として生まれる | |
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また大徳寺春屋宗園師に参禅して宗甫の号を授かり、茶の湯を磨いた。 利休や織部の茶陶芸術を推進し、遠州七窯といわれるごとく、国焼を振興した。遠州七窯とは、遠州が指導した窯をいう。 志戸呂(しどろ)焼(静岡県)、膳所(ぜぜ)焼(大津市)、上野(あがの)焼(福岡県)、高取焼(福岡県)、朝日焼(宇治)、赤膚焼(奈良県)、伊賀焼の七窯を呼ぶ。 谷本光生(1916)は、1946年(昭和22年)30才で古伊賀に魅せられ作陶生活に入り、小森忍、日根野作三氏の指導を受け、谷本伊賀を目指し、1956年「三田窯」を築窯、数々の功績を残し現在に至っている。 またこの程、長男・景、孫・貴の三代展を開催(東京・西武アート・フォーラム)、伊賀焼伝承の第一人者として、健在ぶりを発揮されていた。(R) |
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ご存知ですか、建築家・黒川紀章さんの陶芸歴、忙しい合間を縫って、東京・千駄ヶ谷の陶芸教室・陶房九炉土で基本から上級技術までを習いつつ、一方では、岡本立世の陶芸スクール通信講座を受け、自宅に窯を据え、本格的に陶芸に打込む程の愛好家です。特に抹茶茶碗を作ることに意欲を燃やし、お茶を嗜むこともあったようです。 何事にも意欲的に取り組む黒川氏の代表作品とも言える建築物の一つがこの「国立新美術館」、一見無駄とも見える曲線を持つ外観ですが、しばらく眺めていると、陶芸の美意識にも通じるみごとなラインを描いています。まさに六本木の象徴、圧倒されます。 |
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