全国旅手帖有田・伊万里焼(歴史・特徴)

有田・伊万里焼写真 有田・伊万里焼タイトル

 日本磁器発祥の地として360年の歴史を持つ有田町は、国内はもとより、広く世界にその名を知られたやきものの産地です。佐賀藩主が朝鮮より連れ帰った陶工・李参平が有田泉山で白磁鉱を発見したのが始まりとされています。
 江戸時代後期の有田焼は、古伊万里様式、柿右衛門様式、鍋島様式の三通りがあり、有田の染付、色磁器はこの時すでに世界でも最高の水準にありました。陶工・酒井田柿右衛門が発見した赤絵の彩画着色法や硬質磁器の素地配合、焼成など多くの優れた技法を有していた佐賀藩は、これらの技法が漏えいするのを恐れて厳格な規制を設けました。その一つが販売市場を伊万里に限定することでした。そのためほとんどの有田製品は伊万里津港から諸国に輸移出されたので、有田焼は伊万里焼と呼ばれるようになります。
 1659年ごろから四半世紀の間に、伊万里津港から積み出された磁器は数十万点にのぼり、その後の欧州美術にも強い影響を与えました。ヨーロッパの支配階級は争って伊万里磁器を買い求め、古伊万里や柿右衛門などの名品の欧州製写しが続々と作られました。
 明治以降伊万里は輸出港としてだけでなく生産地となり、有田で焼かれたものは有田焼、伊万里で焼かれたものを伊万里焼と呼びます。

柿右衛門

 赤絵磁器の創始者、初代酒井田柿右衛門から始まり現代まで続く酒井田柿右衛門家の作品様式を柿右衛門様式と呼びます。
 素地は温かみのある乳白色で、米のとぎ汁のような白さであることから「濁手(にごしで)」と呼ばれています。白い磁肌を多く残しながら赤絵を描いた、日本独特の美意識ともいえる「余白の美」を大切にした作品を数多く残しました。

 図案も幅広く、中国清朝の影響を受けたもの、純日本的なもの、あるいはオランダの影響を受けた西欧風のものがあります。華麗な色絵で日本磁器の名声を世界に広めた柿右衛門は輸出磁器の寵児となりました。
十二代 柿右衛門
「濁手 草花文 蓋物」

色絵鍋島

 山深い大川内の里で焼かれていた色鍋島は、鍋島藩が将軍家や諸大名に献上するために作られました。最上の原料を使用し持てる技術のすべてを出せるようにと保護・奨励し、最高級の精巧極まる磁器の優品を採算を度外視して明治維新まで作り続けました。
 素地は柿右衛門よりやや青味を帯びた白色で器肌はわずかな凹凸やゆがみもありません。中国・朝鮮の影響を脱した純日本趣味の文様・図案の絵付は染付の上に赤・黄・緑で描かれ高雅で豪華絢爛です。皿の高台は非常に大きく、高台の外側には独特の文様が染付で描かれます。これが櫛高台と呼ばれるものです。
 現在でも大川内の窯元では鍋島の技法を受け継ぎ、また新たな技術も取り入れ伊万里焼の中心としてにぎわいをみせています。2003年「大川内鍋島藩窯跡」として国の史跡指定を受けました。

色絵椿文変形皿 染付月兎文皿 染付雲文小鉢

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