江戸後期の寛政年間(1789〜1800)頃になって、相川在の黒沢金太郎が、本格的な佐渡生まれの施釉陶器をはじめて完成させたといわれます。佐渡島における独自のやきものの歴史は、ここからはじまります。また次いで、金銀の精錬時に用いるフイゴの送風口(羽口)や瓦を焼くのを家業としていた7代伊藤甚兵衛が、文政年間(1818〜1829)頃、金山から掘り出される「無名異」(酸化鉄を含む赤い土)を素地土に混ぜて、茶器や酒器などを焼きはじめたといわれます。これはとくに釉薬を掛けなくても赤く焼き上がるのが特徴で、これこそが現代にまで継承されている無名異焼の興りでした。初期の頃の無名異焼は技術に熟達しておらず、まだ低火度でしか焼けなかったため、まるで楽焼のように柔らかな製品だったようです。したがって日常生活で使えるような耐久性には欠けていて、残念ながら実用的な器とはいえませんでした。
やがて徳川幕府は崩壊し、明治へと時代が移っていきます。各窯元ではそれら時代の要求に応えて、もっと量産ができ、より高火度で焼締められた耐久性のある無名異焼を作ろうとしました。明治6(1873)年になって、試行錯誤の末についに1200度もの高温で焼締めた本焼の無名異焼が完成しました。「無名異焼」の名が定着したのも、この頃からだといわれています。
無名異焼の朱泥急須は、土の粒子がとても細かく、よって極めて硬質に焼き上がっています。そのため無名異焼は、使い込めば込むほどに光沢が増し、一層の趣が器肌に現れるのが大きな特徴となり、多くのファンに長く愛玩されています。